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 私の行政人生

印刷用ページを表示する 掲載日:2003年5月19日

三重県大内山村長  小倉 文也

私が行政の道に入ったのは、昭和33年7月に大内山村役場の教育委員会事務局に就職したのが始まりです。
当時の教育委員会事務局は、これまでの教育長が辞任し、その後任に村内の医師の方が教育長になったのですが、医者ということで非常勤となり、事務局は私一人で事務を行うことになりました。
私の就任後初めての仕事は、当時教職員の勤務評定制度が始まった時期で、日教組はこれに反対し、ストに突入しました。ストの内容は各職場で校長と口を聞かないという無言ストであります。これに対し、県教委は、地教委に校長に業務命令を出すよう指示してきたため、それぞれの市町村では、直ちに命令を出すことになり、私は何もわからないため、当時の助役に書類を作っていただき、小・中学校の校長のところへ行ったのが最初の仕事でした。
当時の中学校長先生は、私が中学校の時に指導していただいた先生でしたので、私が教育長代理として業務命令をもっていったにも関わらず、校長先生は「おう、文也(私の名前)来たか」と言って、まるで子供扱いされたのが今でも忘れられません。
又、昭和37年頃、小学校の建設計画が始まり、当時の小学校校舎は、明治時代に建設された建物で老朽化が激しく、危険校舎の指定を受けていたので改築申請を県へ提出するため、私が申請書一枚を持って県教委の助成課へヒアリングに行きました。助成課長は、昭和30年の町村合併当時の地方課長(現在の市町村課)でしたので、私が建設計画の説明をすると課長は、「君の村は合併を県が促進している当時、単独を申し出て、地方交付税も補助金も一切いらないと村長が私にいったのだから、補助金は出せない」と言われ、22、3才の私は何もわかりませんでしたので「ああ、そうなんですか」と帰ってきました。
助役や収入役にこの旨を伝えると「まるで坊の使いやなあ」と言って笑われました。そこで、村長は県を通さず、直接国に陳情することとなり、地元選出国会議員に浜地文平という衆議院議員がおり、この先生は、文教議員としても有名な方でしたので、先生と親戚筋に当たる収入役にお供して東京へ陳情に行きました。当時の交通機関は、新幹線がない時代でしたので、東京への直行便である夜行列車に夕方乗車し、朝、東京へ着きました。議員会館に浜地先生を訪ね、先生からの紹介状を書いてもらって、文部省や建設省へ陳情を何回となく重ねました。
当時はまだ陳情の際には土産を持って行くのが当たり前の時代でしたので、伊勢名物赤福餅を土産として持って行くことが多かったですが、ある時、文部省の役人に三重県は赤福しかないのですかと言われたことがあり、次の陳情には役場職員が鮎を獲り、持っていったこともありました。この時の収入役は後に村長となり、私が4期16年助役として仕えました。この方のお陰でようやく補助金が付き、現在の小学校の校舎が出来たのであります。
教育委員会には、8年間在任し、昭和41年10月に役場総務課に転任となりました。当時の役場は課長制を執っておらず、各課でそれぞれ事務を行っており、総務課は男子職員2名、女子職員1名で構成され、私は総務・財政全般と議会書記、選管書記、監査委員会書記を兼務しており、予算の時期になると予算資料により、原簿を作成し、村長の査定に加わって編成をしました。議会が始まると本会議の書記をしながら予算の詳細説明を書記席に居ながら行いましたが、今では考えられないような事務を平気でやっていたのです。会議録も当時は録音機も無く内容をメモしたものを頼りに作成しており、次の定例会までに問に合わせるのに、何日も徹夜をして完成させたものです。
その後、収入役は助役となり、昭和48年に村長に当選されました。この方には、収入役当時から大変お世話になり、兄弟のように可愛がっていただきました。今、私があるのは、この方のお陰であります。私が39才で総務係をしている時、村長に就任して助役選任に当たり、私に助役になってほしいとの話がきました。時の役場には私の先輩が沢山おりましたし、私自身も子供も小さく任期のある職は不安でしたので、固くお断りをしたのですが、「どうしてもおまえでなければならない、多数の者が助役にしてほしいと申し出て来ているのに、お前は、反対に断わるとは何事か」ときつくお吃りを受け、大変お世話になった方の為に若輩ながら、助役を引き受けたのであります。
議会からも「大丈夫か」との声もあったようですが、全員賛成で同意され、助役に就任しました。嬉しいことに、多くの先輩達が私を守り立ててくれました。
以来、4期16年助役として村長を補佐して参りました。この問、色々な事があり、全部を語りつくすことが出来ませんが、一つだけ申し上げますと、本村にB&G財団によるプール建設計画が持ち上がり、財団の現地調査の際、予定していた土地では、狭いとの理由で、建設が出来ないと言われ、とっさに村長はその隣にある民間の田んぼを含めてはどうかと申し出ると、これなら良いとの話になりました。しかし、その土地は他人のものであり、地主の承諾を得ていないため、村長は私にこの土地の所有者に、至急、承諾を取り付けて来いというのです。
無茶な話ですが、当たって砕けろと思って、地主に会い、いきさつをお話すると、地主も呆れ返っておりましたが、ひたすらお願いし、ようやく了解をいただくことができ、その旨を現場へ行って調査官に申し出て、事業が承認され、早速、建設に入ると言う事になりました。今から振り返ると何とも無謀なことをしたものだとつくづく思い出されます。
4期連続で村長をして、平成元年に勇退され、その後を私が引き受けて以来、既に私も4期目に入りました。今振り返りますと、行政のあり方も大きく変貌をしております。当時、計算は全てそろばんであったのが今はコンピューターとなり、全てITの時代となってきております。
今、全国の自治体では、市町村合併という大きな時の変動期にあたり、四十猶予年に亘る行政人生は私の人生の大半であり、これを振り返る時、残された行政人生を悔いの無いものとして全うしたいと願っております。