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 水中考古学と鷹島

印刷用ページを表示する 掲載日:2003年2月24日

水中考古学と鷹島

長崎県鷹島町長 宮本正則

鷹島は、佐賀県伊万里湾に浮かぶ、人口3千人足らずの島である。

今を去る720年の昔、日本国は未曽有の国難に遭難した。文永11年閏10月(1274)と弘安4年夏(1281)の2度に亘る「元寇」である。世にこれを文永・弘安の役ともいうが、蒙古の一部族から興り欧亜大陸に一大覇権をつくった元が高麗(朝鮮)南宋(中国)征服の余勢を駆って日本に来襲した文永・弘安の時代は「永久の乱」後急速に衰退した朝廷の統治権力に替わって、武家統括が登場した中世の開幕期、鎌倉幕府8代目の執権北條時宗の時世であった。

その性剽悍、軽装騎馬軍団の戦闘に長け、戦いは残虐、完膚なく敵を殺戮掃討して止まぬといわれた蒙軍。迎え撃つ日本軍は、武家興隆の波に乗る鎌倉御家人と九州各地の武士団、その尚武の気性と護国の戦意は旺盛だったが、彼我の戦力は、武器、戦法の優勢、兵数の逕庭で比肩するべくもなかった。文永の時は元軍4万、日軍1万。弘安の来襲には蒙宋高の連合14万2千、軍船4千4百隻の大軍勢。元の世祖忽必裂が一挙に日本を併呑せん勢いで派した遠征軍だった。この侵寇を防ぎ得たのは武士団の奮戦もさることながら、忽然と玄界灘に巻起こった大風が船上の軍兵に潰滅的打撃を与えられたからにほかならない。

世にこれを「神風」と呼び、夷敵退散に神仏の加護があったと伝承し、永く神国思想の土壌ともなったが、両度の戦役で最も惨禍を受け、激戦の舞台となったのは博多湾から伊万里、松浦に至る沿岸の島国、壱岐、対馬の一帯である。なかんづく元船団が集結、機動の要衝とした鷹島は全島絶滅の災禍を受け、以後100年人間不在の「死の島」と化したという。

元寇7百年に当たる昭和56年8月30日と31日の両日鷹島町では、町の主催で元寇7百年祭を盛大に執り行い彼我将兵の慰霊と冥福を町民挙げて祈ったのもこの縁由にある。

星霜流れて720年、幾多の国家、民族が治乱と興亡の中で変遷を綴って来たが、現代日本を取り巻く国際緊張状況の中に、忍び寄る戦争の影を見る人も多い。戦争と侵略の人間心理は、時代と文明を超えて脈絡と生き続けていることも事実だ。720年の往時と現代は世の在り方の総てが変わったが、変わらぬものは1つ戦争と侵略の人間心理であろう。

国難に揺らいだ「元寇の時代」を偲び、その戦史を今少し次に掘り起こしてみたい。

元と日本の確執は、文永5年正月(1268)元の使者藩■(高麗人)が元と高麗の国書を持って太宰府に来たことに始まる。時の太宰府長官は少弐武藤資能。その国書は40日後に鎌倉に届けられ更にその1月後に幕府は京都朝廷に奏上した。国書は「上天の◆命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず」の書き出しで初まる服属勧奨の書で、朝廷は連日会議の結果「返牒あるべからず」と議決、黙殺した。その翌年3月、蒙使が77余名の従者を連れ対馬に来たが押し問答の末に帰国し、更にその秋対馬を経て太宰府に到着、蒙古中書省の牒を示した。朝廷は「日本は神国ゆえ蒙帝の威嚇に屈せず」と拒絶の返書を作ったが、幕府は「牒状の文意無礼なり」と使者を帰らせ朝廷から送付の返書草案は握り潰した。

越えて文永8年秋、蒙使一行100余名が筑前今津から太宰府守護所に来て国書の回答を迫ったが朝廷は返書を与えず一行は空しく帰国した。この外交騒然たる情勢に、鎌倉幕府は西国御家人に夷敵警護を指令し、執権時宗を先頭に陣客強化の構えを見せていた。現在の自衛力強化、軍備拡大路線の“鎌倉版”である。当時異国警固番役を設け、九州の御家人には大番役として筑前、肥後沿岸要害の当番警固を定めている。

他方、世祖忽必裂は度重なる牒書無視を激怒して日本遠征を固め高麗に軍船建造を命じ戦備を進めた。新建造9百隻、軍勢2万が折都(蒙人)を都元師(総司令官)として対馬の国府(厳原)に押し寄せたのは文永11年10月5日早暁であった。対馬の地頭、宗国助は郎党80余騎を率いて佐須浦に馳せ向かい、上陸の元軍1千余と果敢に戦い、激戦数刻、国助と子息ら10余名が討死し他は敗走した。元軍は佐須浦の民家を焼き払い、やがて対馬全島を制圧した。次いで元軍は壱岐を襲い、守護代平景隆が御家人100余騎で戦ったが衆寡敵せず全滅した。やがて元軍は松浦沿岸の島々を侵し、松浦党の武士数百人が戦死した。時の鷹島守護代、鷹島満の一族郎党も悉く討死している島々の百姓漁民、老若男女すべて虐殺されたと伝えられている。戦場では殺戮、凌辱の荒々しさをほしいままにした蒙軍、住民残滅に容赦はなかった。

戦争はいつの世にも人間の狂気と惨忍性を呼ぶ。第2次大戦下のヒトラーの虐殺、南京事件の例など実証にはこと欠かぬのだ。元軍博多湾侵入は10月19日早暁だ。翌20日暁闇を衝いて箱崎博多方面へ2万の主力が続々と上陸を開始した。この日、同方面の日本軍総大将は大宰少弐景資が陣頭指揮し合戦は朝から日没まで続いた。西の佐原、赤坂方面には高麗軍が百道原の海岸から上陸、西の今津には洪茶丘の率いる蒙軍勢が上陸した。

戦闘はたちまち大激戦となり、武士団は戦闘方式の違いや火石弾の連射で苦戦に陥ったが、この戦闘で敵騎の包囲を衝いて駆けた少弐景資が、死中に活と振り向きざまに射た矢は左副元師劉復亨副司令官(高麗人)を馬から射ち落とした。武士団の一騎討ち戦闘に対し元軍は集団戦。矢じりに毒を塗り短弓で遠く飛び鉄砲の新兵器火薬もあった。当時日本人は火薬を知らなかった。刀槍弓の闘技だけが本領だったのである。「八幡愚童記」はこの合戦の様を「博多、箔崎ヲ打捨テ、多クノ大勢、一日ノ合戦ニタヘカネテ落チコモルコソ口惜ケレ」と記し、戦闘に疲れ果て水域の城に立て籠もった日本軍の姿を描いている。武神を祭る箔崎八幡宮もこの日焼け落ちた。だが、元軍は薄暮追撃を止め、何故か元船へ引き揚げた。夜半、忽然と大風雨起こる。多くの軍船は難破、溺死者数知れず、溺死、戦死合わせて無慮13,500人と「高麗史」は記している。忻都、洪茶丘、劉復亨ら将領らが元都●京に帰り着いたのは翌年1月だという。

難破した軍船は元が船匠に強制して造らせたものだ。元の日本侵寇にため軍糧や造船の苦役を負い、遠征軍に駆り出されて玄海の藻屑となった高麗民衆も哀れである。高麗を服属させていた元は、高麗に元軍を駐留させ武力の威嚇で支配していた。日本遠征にも高麗六千を動員し、元高連合軍を編成していた。現代の日米関係に酷似するものを思わせる。文永の役はかくして終幕した。

元帝忽必烈の日本侵略の意図はこの敗北でも消えなかった。翌年の4月16日(建治元年)日本に朝貢と服属を求める宣諭日本使が長門の室津に着いた。その国使はモンゴル人社世忠、漢人の何文著、高麗人徐賛らが上位の全権使。8月、太宰府は彼等を鎌倉に護送した。執権時宗はこの元使を悉く竜ノ口で斬首した。9月4日のことである。同時に幕府は博多湾の石塁構築を大規模に着手した。防塁工事は要害石紫地役といい、その費用負担は国内総ての領主に割り当てられた。現在でいう軍備費の増徴である。

他方、元は再度の遠征を企図し高麗と南宋に造船命令を出しその準備をすると共に一方では服属勧告の使者を再び派した。使者が対馬に到着したのは初夏の頃。だが今度は鎌倉に送ることもなく、博多で全員が斬首された。伝え聞いた元側が激怒したのは当然だが、元帝忽必烈は日本再遠討の軍を起こす。越えて弘安4年夏高麗軍を主軸とする東路軍4万軍船9百隻。南宋軍を主軸とした江南軍10万2千、軍船3千5百隻。遠征軍の主力は江南軍であり慶元(寧波)と舟山島から6月半ばに進発している。東路軍は5月31日その一部が対馬に上陸し、6月6日博多の沖、志賀島に迫った。志賀島の彼我の攻防激戦は約一週間、日軍の小舟によるゲリラ的夜襲で戦意が衰えたのか13日には鷹島周辺に退いた。江南軍の主力が平戸、五島一帯に姿を現したのは6月末。一部は東路軍と合し壱岐を襲った。 

その戦闘は激烈で、御厨から壱岐に押し渡った太宰府守護少弐景資と父景能は負傷、子資時(19才)は討ち死にした。松浦党、竜造寺などの兵数万や薩摩の軍勢が壱岐の戦いに奮戦している。壱岐の戦い後、東路軍と江南軍は平戸で合流し、その主力は鷹島に移動している。鷹島を作戦要衝の地と見たのであろう。 

かくて閏7月1日夜半に吹きそめた北西の風は暴風と化し、玄海の怒濤は岩を噛み船を砕いた。軍船の残骸は海に漂奔し、鷹島の浜に打ち上げられた軍兵5千余という。数万の兵は海にのまれ、その損耗数を知らず「元史」には「十に、一、二を存ず」のみとあり、また「師を失うこと十に七、八」とある。まさに元軍潰滅の打撃を受けた。日本武士団が残敵掃討に押し寄せ捕虜数千を斬った。博多から今津、鷹島の対岸、御厨から平戸方面へかけ元兵の遺骸はるいるいと横たわった。今も今津の北方にある蒙古塚や鷹島の首除(くびのき)、血浦、地獄谷などの地名は、この戦いの名残である。

神崎港の海岸で貝掘りの中で発見した管軍総把印、至元14年造と刻印された青銅印は、モンゴル国の博物館に保存されている管軍総把印と同一のもので、当時の指揮官(中隊長)クラスと言われており、大変貴重なものだ。その他貴重な遺物として木製の碇(いかり)がある。長さ約8米はある大きな碇で、この碇から想定すると、船の長さは約40米もある当時としては大形船でその船の復元の計画もあり楽しみである。

また、昭和55年から始まった水中考古学の発掘作業は遺品の数も数万点に及んでおり、中でも一昨年発掘された「てつはう」は竹崎季長の元冦来襲絵詞のなかに画かれているもので貴重だ。他に青磁の茶碗、水がめ、インゴット、船のバラストとして使用したであろう、セン(レンガ)等々紙面の都合で割愛しなければならないが、引き揚げるばかりでなく、確実に保存が出来る事を確認しながら慎重に作業を進めなければならないだろう。果てしなく続くであろう水中考古学のメッカである事には間違いなく720年前にこの地で華々しく散った彼我将兵の冥福を祈って止まない。

■=「白」の中の棒のないものの下に「十」
◆=「并」の5、6画目を左右に払ったものの下に「口」
●=「承」の「三」を取ったものの下に「れっか」