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 歴史を大切に・・・ 川とくらしと町づくり

印刷用ページを表示する 掲載日:2002年5月13日

茨城県藤代町長 小林靖男

藤代町は茨城県の南部で首都圏40キロメートル内に位置し、人口33,700人、面積32.87平方キロメートル、平均標高6.9メートルの平坦な土地に、町を貫いて小貝(こかい)川が西から東へと流れている。

わが町は38地区に分けられる。その地区が昔の村落であった。うち一地区のみが古代からの歴史を有し、そこには古墳跡もあり、その発掘品は国立博物館に所蔵されている。他の37地区の歴史は近世に始まる。

往時の37地区は、隣接する市や町の低地とともに、鬼怒(きぬ)川・小貝(こかい)川が合流した大河(絹川)とアシやマコモの生い繁る一大湿地帯であった。

江戸時代初期、幕府は鬼怒川と小貝川を分離し、小貝川に大きな用水堰を造り、用排水路を配し、開墾により湿原が水田に変わり、村落が形成されていったのである。

この開発のメリットを2つあげるとすると、

1つには、地味の肥えた広大で真っ平な田園となった。徳川時代の文献を繙くと、この辺りは豊穣な稲作地帯として紹介されている。

2つに、水辺の恩恵である。戦後のある時期まで町を流れる河川は清流であった。私自身が小貝川の畔に生まれ育ち、子供のころ、朝起きてから日が沈むまで夢中になって楽園と呼ぶに相応しい川で遊んだ懐しい思い出をもっている。特に魚介類の豊富なこと、ドジョウ、ウナギの一大産地であったばかりでなく、コイ、フナ、シジミなど大量におり、季節によっては、サケ、ウグイも漁獲できた。

開発のデメリットも2つあげると、1ばんめは、当然ながら低湿地帯であることだ。アシやマコモが枯死して堆積した地層が全町域に分布し、したがって町の地盤は軟弱である。また、土地改良の積み重ねの結果、現在ではそうではないが、3尺掘れば水が出る土地柄で、墓穴などは深く掘れなかった。

2ばんめは、洪水の常習地帯だった。わが小貝川は暴れ川として周知されている。町は堤防決壊による大水害を度々被ってきた。また、高性能の排水機場が設置される以前には、内水(うちみず)と呼ぶ用排水路の洪水に毎年のように悩まされたのである。

ハイテク文化の進んだ現代の生活においてひとたび大洪水に遭遇した場合、その結果ははかりしれないものを秘めている。

当町は首都圏への通勤圏内なので新住民の増加が著しく、人口の過半数を占めるようになって久しい。また、昔を知らない旧住民の新しい世代も増えている。

町政を託された者として、水害対策をはじめ現在のさまざまな課題を解決していくうえで、右に述べた町の歴史、土壌、川との関わりについて理解してもらい、住民一致して対処していくことが肝要であると信じている。

そのためには、まず住民に川への関心をもっていただこうと、町では、町の宝とも言える小貝川をさまざまに活用する施策を実施してきたのである。

私が町政を担う以前、新旧両住民の有志がフラワーカナル(花の運河)づくりに立ちあがり、当時の建設省の協力も得て、それまで危険なところ、近づきがたいところだった小貝川原を住民に親しまれる場所に変えた。その運動の輪が広がり、現在ではテレビで放映されるなど、全国的に注目されるようになった。

このほか、川の自然豊かな空間を利用した教育・福祉の試み等もなされている。

わが家の近くに水神宮があり、毎年1月になると4軒共同でお詣りをする。江戸時代から欠かさず続けてきた祭礼である。

川への敬虔な祈りを捧げるとともに、為政者として、暴れさせてはならぬと決意を新たにするときでもある。