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 故郷と十二支

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年10月29日

宮崎県町村会長 北方町長 佐藤嘉紘

馬と牛と犬と鼠と竜と猿が1つ屋根の下に住み、時には大きな声で笑ったり泣いたりしている奇妙な家が、私の家庭であり家族であります。私は宮崎県東臼杵郡北方町寅(とら)1003番地に午(うま)の年に生まれ、現在は丑(うし)の地区に丑年生まれの妻と、戌(いぬ)・子(ね)・辰(たつ)・申(さる)年生まれの子供や孫と暮らしています。

私の故郷北方町は、200平方キロメートルある土地を干支(えと)(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の十二支で土地区分をしている日本で唯一の町であります。

干支は今を遡ること約4000年前、中国古代王朝である「殷(いん)」という国が、特別な占いに使ったとされる甲骨(こうこつ)文字に始まるとされ、現存する最古の漢字資料とされています。

最初に干支に接した日本人は、北部九州の弥生人で、中国から輸入された鏡に書かれた年号の干支を見てからと言われています。

「あなたは何年生まれ」、「今年は巳年だ」とか、年賀状の図柄には干支の動物が欠かせませんし、旧暦の正月やお盆の慣わし、6月の土用の丑の日にうなぎを食べること、妊婦の岩田帯は五ケ月目の戌の日を選ぶ習慣等、現在でも生活に深くかかわっているものが数多くあります。各地のお土産店でも干支に関する土産品がたくさんありますし、「草木も眠る丑3つ時」などはポピュラーな方といえましょう。

干支を図案化した620基の「干支の街灯」や「干支の道路標識」、「干支案内板」の設置、「干支石ケン」や「竹酢のえと姫」等の特産品の開発も行っています。

卯の地区には、旧建設省の手づくり郷土賞を受賞した吊り床版橋「うさぎ橋」や「干支大橋」、そして日本最大級の人工芝スキー場と風力発電(750キロワット)を有する森林レジャー施設「ETOランド」をはじめ、町内の小学校に入学する1年生が、小学校を卒業する時に支給する「ETOっ子祝金」12万円等干支を中心とした町づくりを展開しています。

江戸時代に戸籍や徴税に用いられてきた「門(かど)」制度が明治時代に廃止され、全国的に大字・小字・地番へと改められてきましたが、当時の北方は、総筆数が19,577筆という膨大な数でした。天文学に優れた知識をもっていた第3代戸長(こちょう)古川定明(ふるかわさだはる)(明治12年~19年に在職)は、明治十五年、宮崎県がまだ鹿児島県に併合されていた頃、発行した地券に干支を用いた朱印を押印して配布をしていますが、明治22年町村制施行時には、干支で完全に土地区分制が完成をしております。

それから100年以上の歳月が流れ、現在の本町の筆数も約59,000筆に増え、コンピューター時代の行政業務においても、この干支の土地区分制度で、何の支障もなく事務処理が行えるのも、いかにこの制度が後世の土地事情を考慮した合理的なものであったのか、改めて先人の知恵に敬服させられるのであります。

中国4000年の文化財「干支」は、こうして宮崎県北方町で町づくりの柱としていきいきと光り輝いています。

その中国から竹の子、生椎茸、野菜等々の農林産物が低価格で多量輸入され、本町の農家も打撃を受けている事実を、どうとらえたらよいのでしょうか。

今年も又、中国、山東省から1945年に三菱鉱山槇峰鉱業所に、強制連行され労働を強いられ殉難した、76名の御霊を祀る中国人殉難者慰霊祭を挙行し、殉難者の御霊に弔慰の誠を捧げるとともに、両国間の親善と平和のために尽くすことを約束した9月11日でありました。

近くを流れる綱の瀬川のせせらぎと虫の奏でるハーモニーが聞こえるこの季節に、これから先も、何年も何十年も引き継がれ、世界の恒久平和と繁栄を願う日があって欲しいと思うのは欲張りでしょうか。

それとも雇用の場が無く、農村の若者は都会に憧れ、少子化は更に進み、大切な行事も継続が難しい時代が来るのでしょうか。

うさぎおいしかの山、こぶなつりしかの川等のたくさんの童謡が生まれた山村の価値は何でしょうか。人は皆、空気が美味しい、水がうまい、緑が美しいと言う。それを造る自然はお金に換算されたことがあったでしょうか。

農山村の発展充実こそが、総ての発展に繋がることを信じ、「こころ」と「ひと」と「もの」と「ふるさと」を大切にして「日本唯一干支の町きたかた」の町づくりに努めていきたいと思います。

牛や兎、羊や馬や猿、猪の十二支の動物が歓迎します北方町へ是非一度、おいでください。