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 人づくりに想う

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年7月2日

高知県梼原町長 中越武義

雲の上のまち梼原(ゆすはら)に育まれた1滴の雫が、日本最後の清流四万十川を始め四国を代表する3つの大きな流れとなり、黒潮踊る太平洋へ、穏やかな瀬戸内の海へと注ぐ。

自然豊かな梼原町は、四国の中西部、四万十川、仁淀川、肱川の分水嶺に位置し、森林が総面積(236平方km)の91%をしめる典型的な山村です。

また、幕末には、坂本龍馬を始め多くの志士達が日本の黎明を信じて旅立った維新の里でもあります。

高知と愛媛の県境故の風土か、茶道に代表される客人をもてなす心を持つ厚い人情が、今なお、連綿と受け継がれている町だと、私は自負しています。

我が町は、昭和38年に、2mを超える豪雪と台風9号による未曾有の大災害に見舞われました。

そして、その復旧工事が契機となり、農林業から建設業の町へと歩み始めました。

ちょうど、日本が農山村の中学、高校卒業生を金の卵としてもてはやし、高度経済成長路線へと邁進し始めた時期と軌を一にしています。

役場に勤めるといっても誰も見向きもしないこの当時(昭和37年)、私は町役場に奉職しました。

初めての上司が、大変律儀な方で「まず、挨拶せよ。直属の上司より遅れて出勤するな。意見は理論付けて述べよ。命令には従え。自分以外全て師と仰げ。」と仕込まれ、夜を徹して論議を重ねた事も1度や2度ではありません。

また、同僚からは「何不自由なく育ち、すんなりと奉職した君達に人の苦労が分かるか。努力が足りない努力が。」と叱咤され、鍛えられたことでした。

その度に、私は「この先輩達に優るものを1つでも持とう」と心に誓い頑張ったものです。

今の私があるのは、こうした方々のおかげだと感謝しています。

正に、「良きライバルを持てた」ということでしょう。

以来、私は現場を重視し、体を使い、経験を基本に、仕事を進めてきました。

そして今、この40年の積み重ねから「出来ること、出来ないこと」をはっきり伝える力を身につける大切さを痛感しています。

住民の方々に、政治的な言葉は不必要だと思います。

特に、住民1人1人の顔が見える小さな町で行政を進める時、人間同士が直接顔を合わせ、自らの思いを伝えあうこと、そして、職場においては、良好な人間関係を築くことが大切であり、このことがスムーズな業務の執行に欠かせないことだと信じています。

こうした力をつけることが、行政マンに求められるのです。

「自ら進んで目的を持ち、問題点を見つけ、法令に準拠して仕事を進める職員が少なくなり、十分に挨拶ができず、指示待ちの職員が多くなりつつある」最近の傾向を危惧する1人です。

1人1人は、高い能力を持っているのに、自ら進んで物事に取り組もうとしない、強いて言えば熱い思いと個性のある職員が少なくなっています。

地方分権、市町村合併等大きな課題が山積する地方行政の中、職員の資質の向上は不可欠です。

まちづくりは、人づくりです。

「やる気」のある職員の育成に全力を注ぎます。

今、環境や自然、癒しといった言葉に代表される山村への大きな追風が吹き始めました。

我が町は、21世紀のキーワード「環境、健康、教育」を総合振興計画の基本構想の理念としています。

この計画は、公募による住民の方々にまとめていただいた住民主体のまちづくり計画でもあります。

今までは、ともすれば強い指導力と実行力で、住民をひっぱって行くリーダーが求められていました。

しかし、これからは、それぞれの町に、自らの責任と権利に基づき、行政に積極的にかかわる住民が、いかに多く住んでいるのかが問われる時代です。

町の存廃を決するのは、住民自身である「住民自治時代」の到来です。

良き先輩や友に教わったそれぞれの時代にマッチした地域を担う人づくり対策をしっかりと受け継ぎ、ふるさとの未来を信じ、夢のある地方自治をめざし、熱き思いで取り組もう。