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 生い立ちから今日の公務員として

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年6月11日

福岡県鞍手町長 篠原彌榮

「彌榮」の名刺を出しますと大半の方は、私の顔を見て、失礼ですが、とする人と素直に「いやさか」と呼ぶのですかと問われる人、その都度「やさか」と申しますと申し上げ、名前の由来を説明することが多くあります。

長男を亡くし次男の私を後取りにするため父が神頼みとして神官に名付をお願いしたものであり、後年ある用件で神官宅を訪問した時、玄関よりよく見える鴨居に彌榮としての額があり、これが私の誕生となったものと感じたのであります。

私は、八歳にして母を亡くし三百安の祖母育ちですが、1つだけ躾として厳しいものがありました。それは、名前を大切にすることとして、毎朝の四方拝と仏前に手を合わせることにあり、今日でも神仏の加護として念ずれば生ずとしているのです。

戦前戦後の教育を受け昭和25年に奉職し半世紀の公務員生活で、その間幾多の困難な出来事として心に残るものがあり、心の支えは、奇跡は信仰からとし、棄てる神あれば拾う神あり、人事を尽くして天命を待つとしているのであります。その1は、18歳にして奉職し、同年8月に事情あって国勢調査の責任業務を命じられたのであります。

10月1日の調査であり、期間的猶予もなく知識もなく60名の先輩の皆さんに調査員の心得と内容等の説明をした時は、足は震え、心臓はどきどきし、しかも皆さんから落ちついてと声をかけられ赤面の思いをし、心の中で神頼みをしたことを覚えています。

結果は、総理大臣賞を受賞することになり以後公務員生活の糧としているのです。

その2は、昭和51年に産業課長を拝命した時、第2次農業構造改善事業による農業近代化施設整備事業として、トマトハウスの造成であります。

農家は、農地の圃場整備が本来の目的であり近代化施設建設に約2ヶ月間毎夜のごとく自分自身に叱咤し、協議を重ねた結果、18棟軽量鉄骨ハウスの実現を見たのであります。

建設初年度の台風は、物件未引渡しのため職員で対応し大事なく、翌年は、台風に充分注意するよう申し渡しをし、物件の引渡しをしたのであるが、9月15日の台風には農家の皆さんは、敬老会に参加、ビニール撤去の備えなく18棟の内、17棟は見るも悲惨な姿で倒壊したのであります。

それから厳しい再建の協議を進めることになり、協議は進展せず、ある晩地元協議の帰り、倒壊現場の田の畔に腰を掛け、1人月を仰ぎ神頼みをしたのであります。

その後、長期間苦しみの協議でしたが、最終的には、再建することができたのであります。

その3は、昭和54年に施行された日本国有鉄道の再建法に基づく地方ローカル線の廃止であります。

本町の中央部を縦走し、4ヶ所の駅がある国鉄室木線が廃止対象となり、昭和60年に廃止されたのであります。

室木線は、明治41年に開通約77年間に亘り通勤、通学、通院、買物等日常生活に欠かせないものがあり、廃止には住民集会等根強い反対運動がなされたのであります。

一方、本町の将来を考え建設的な取組みを強く要望される人もあり、内容的には、本町の北部を通過する国鉄筑豊線に新駅を設置し室木線跡地を道路化し、効率的利用をすべきであるとする意見があり、反対運動の業務と建設促進の水面下の業務にと長年苦しみ、ここでも神頼みをしたところであります。

5年有余の結果、建設計画を取り入れたのであります。

平成6年厳しい選挙の中、町長に就任、神仏に敬信敬仰し、何事にも忍の1字で堪忍は一生の宝とし1日の休みなく職務に専念いたしたのですが、一昨年12月に心筋梗塞狭心症で倒れ、手術台では「我が人生これまで」かと思った事があり、不思議にこの時は、怖さも寂しさもなく、ただ天命を待つとする心境でありました。

今考えると天命を待つ心であったことは、日頃の神仏に対する敬信敬仰から生まれたものと感じているところであります。

手術の結果職務復帰することができましたが、入院と同時に12月議会はもとより各種行事に欠席する等迷惑をかけ、今にして町長としての使命の重さと健康は富に優ることを痛感いたしているところです。

執筆の依頼を受けた時、人生所感等自由とありましたので、まもなく70歳を迎えるにあたり、苦しみの中、喜びの心に残るものを題材といたしました。お許しを下さい。