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 地方自治と伝馬制度

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年6月4日

滋賀県土山町長 松山正己

徳川家康は、「京」と「江戸」の間に伝馬(てんま)の制度をつくり53の宿駅を設置しました。これが東海道五十三次となり徳川幕府の交通、通信体制の礎を築きました。以来四百年、平成の今日においてもJR東海道線、新幹線としてその有用性は立証されています。

では、なぜ人々は東海道五十三次のことを語らずに、また、知らずに過ごす日々となったのでしょう。

足で歩いた東海道が、鉄道にとって変わった為に東海道は無くなってしまったのでしょうか。それは今も健在であると思っています。品川も、三島も、草津も立派な自治体として、都市として存在しています。

我が町は、往時の東海道五十三次の宿場の『土山(つちやま)宿』でありました。

昭和62年の夏のことです。地域の青年達は、郷土の生い立ちを知るべく学習会を行い、「東海道宿駅のまち」とは何かを学ぶことにしました。

これが東海道シンポジウムの誕生なのです。

生き甲斐を求める青年達は、過去の宿場の繁栄の本質を学ばねばならなかったのです。

次の年、東海道五十三次をテーマにシンポジウムの開催に手を上げた所がありました。江戸を発って初の宿場、品川宿でした。何と今の東京都品川区青物横丁当たりの商店街の青年達だったのです。彼等も当時の世相の中にあって自らの日常を真剣に見つめ直していたのでした。

明治の初めに鉄道を拒否し迂回させて以来、さびれつづけた「土山宿」と、全く異なり繁栄と拡大を続けて止まない大東京の街も何かを考える必要があったのでしょう。

以来「知立(ちりゅう)宿」「桑名(くわな)宿」とシンポジウムの開催の手が上がり続けたのです。本年は、「東海道五十三次ど真ん中の宿…袋井(ふくろい)宿」の袋井市が、東海道宿駅四百年記念の年として、大シンポジウムを開催されることとなりました。第14回目のシンポジウムです。シンポジウムの開催を続けて頂くうちに各々の宿場の個性が明らかになって来ました。

東海道は、武家も公家も商人も、私的な旅人も歩んだのです。

江戸から京へ、江戸から伊勢へ、旅することに喜びと夢を与え旅の苦しさと危険に打ち勝つ勇気を与えてくれたのは、宿々の個性であったのです。宿場には多くの人々が働きました。宿場を管理する役人や雲助(くもすけ)も、助郷(すけごう)人足も、馬方(うまかた)も一生懸命働いたのです。ここに生きとし生きる人達の暮らしがあり、彼等の力で築き上げた宿場の知恵がありました。

伝馬(てんま)制度は、字の如く馬と人の絆がこれを支えたのです。刀や弓では動かない風雨に勝る庶民の力がなければならなかったのです。彼等の得た情報は、社会の経済を動かし、治安の維持に努め、地域に文化を育てたのです。

伝馬制度(宿駅制度)の東海道五十三次は、形の無いものであるかもしれません。

しかし、それは我が国の歴史の一幕を立派に貢献したものであり、その命は脈々と生き継がれているのです。

文化財保護法には、「我が国民の生活の推移の理解に欠くことの出来ないもの」とあります。徳川家康の没後に建造された日光東照宮は国宝なのです。

さすれば、我々の語らんとする、学ばんとする東海道五十三次は、国民の遺産として守り続けなければなりません。

私の町土山町は、東海道の馬子唄に「あいの土山」と唄われました。

東海道を愛する人々や昔の宿駅の人々と共に「あいの土山」は東海道五十三次を大切に守り育てて行きます。