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 地方自治の道理は生まれるか -鎌倉時代に学ぶ-

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年3月26日

秋田県町村会長 角館町長 高橋雄七

NHKテレビ大河ドラマで、北条時宗が主人公として取り上げられております。鎌倉時代は、歴史の上では武士団の台頭や宗教界にも新しい宗派が生まれた、日本歴史の上で大きな変革の時代がありますが、テレビなどではあまり取り上げられませんでした。

源氏と平家の合戦には、源義経というスターがおりましたし、平清盛、後白河法皇という話題性に富んだ人物がいない、いわゆる地味なイメージが鎌倉時代なのかもしれません。まして、源氏は頼朝、頼家、実朝と3代で亡び、実質的な権限を握る北条氏も、初代の時政と頼朝の妻政子以外は地味なイメージです。

北条氏が執権という地位を得て、将軍は飾りだけの地位にしながら執権を中心に武士団を統括していく歴史をみますと、2代義時、3代泰時、5代時頼、8代時宗と名執権が出ております。源実朝亡きあと、姉政子と義時が承久の乱を乗り切り、そして鎌倉幕府の基礎をつくりました。後の武士社会の基本法となる貞永式目(御成敗式目51ケ条)を制定した3代泰時など、もう1度歴史の舞台に登場させ、現代の政治のあり方や権力を持つ者の身の処し方など、学ぶことが必要なようにおもわれます。

御成敗式目は鎌倉幕府の基本法で、源頼朝以来の慣習法や判例などを基に、御家人の権利・義務・所領の訴訟などを武士にもわかるような文章で成文法としたものですが、以後、徳川幕府まで武家時代を通じて模範とされたものであります。

さらに泰時は、執権という権力を1人占めにするのではなく、連署という執権に次ぐ地位を設置し、命令書に執権と並んで署名する体制をつくっています。また「評定衆」13名を置き、北条氏だけの専制にならぬよう、御家人(関東武士団)の合議制を取り入れたことがあげられます。

泰時の意図するところは、源頼朝によって保証された武士団の権利や義務について、それまでの公家社会に続いてきた「律令の法制」に対して、新しい「道理」として成文法化したものとされております。

鎌倉時代は、「武士階層、宗教界をはじめ農民や庶民の階層に変化が起こった」というよりその変革がエネルギーとなって形成された新しい時代といえるとおもいます。それでこそ北条泰時の主張する道理の筋を通すことが必要であったと思うのであります。

目を転じて現代をみますと、地方分権論議から分括法の執行、さらには市町村合併とその法制化などが中央では論じられております。この過程は鎌倉時代創設は地方からのエネルギー、そして時の公家政治の行き詰まりということで展開されたものであるとするならば、日本の現状は中央集権的な政治手法、行財政手法から脱することなしに論じられていることであり、地方の力が大きな変革のエネルギーとして新しい「道理」になるまでに到っているでしょうか。

地方(都市農山漁村を問わず)のエネルギーの実態を肌で感じ、そこで政治を行っている地方自治体が、いま必要としている地方分権(地方自治)とはどういうものであるのか、そして中央という政治体制はどういう変革を求められているのかについて、どの場で論議され、行動に移され、新たな変革と道理の誕生につながるか、その過程の不透明さが現在の日本の閉塞状況を示しているとおもわれるのであります。大変革の前触れの状況をどのように意識するかが、町村長の役割だとおもうのであります。