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 文化村づくり

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年8月7日

沖縄県読谷村長 安田慶造

読谷村(よみたんそん)は面積35.17平方キロメートル、人口約3万7千人で、毎年400名程の増加を続けている村であります。1972年(昭和47年)の日本復帰で村域の73%、現在でも46%が米軍用地として使われ、言い換えれば行政が手を入れることの出来ない土地が約半分も存在すると言うことであります。そのような基地の村ではありますが、文化を中心としたむらづくりに村民一体となって頑張っております。

さて、本村には他府県から行政関係者をはじめ沢山の方々にお越しいただいております。そして決まって質問されますのが「3万の人口で、どうして村なのですか」、私は「どうして町にならなければならないのか」と逆に考えるのです。本村のこだわりは後述することにしますが、本村の村づくりについて紹介申し上げます。

本村の復帰当時の目標は「人間性豊かな環境・文化村」づくりでありました。当時沖縄は「海洋博」に伴う、いわゆる開発ラッシュの社会状況下にあり、「環境」や「文化」を行政の基本方針に位置付けした自治体はほとんどなかったと記憶しております。30年近くが経過した今日、「環境問題」を真っ先に論じなければならない時代になってまいりました。

「文化で飯が食えるのか」と議論する時代でもありましたが、時は移り村民も「文化」という言葉を日常会話の中でも使うようになってまいりました。

私達の「文化村」づくりは「陶芸」と「織物」の2つの伝統工芸の振興を中心に展開してまいりました。そのひとつが陶芸振興としてのヤチムンの里(沖縄の言葉で「焼き物の里」)建設であります。かつて軍用地(不発弾処理場)として使われていた場所を切り開き、4名の陶工を本村にお迎えし、昔ながらの「登り窯」にこだわって作陶をしてもらうことからスタートいたしました。地域活性化施策の一つとして、「人材の誘致」を行うことで新しい地場産業の創出に取り組んでまいりました。20年余りが経過した今、かつての不発弾処理による硝煙は、「平和の煙」に様変わりし、文化の拠点・交流の拠点として生まれ変わりました。

本村には登り窯が5基ありますが、読谷山焼の9連房と13連房の登り窯は「ヤチムンの里」のシンボルとなり、村内に40カ所を越える窯元が立地、人間国宝も誕生するなど、沖縄陶芸の中心的役割を担うまでに発展してまいりました。今後の展開として、一帯の環境保全の準備をはじめております。

文化村づくりのもうひとつの柱は「読谷山花織(ユンタンザハナウイ)」という織物の振興であります。14世紀後半に東南アジアから伝えられたとされるこの織物は、明治期に途絶えてしまいましたが、昭和39年に関係者のご努力により90年ぶりに「幻の織物」が再興されました。それ以後年々発展し、こちらも人間国宝が誕生するまでになりました。その間、行政として継続的に後継者育成を支援しながら、活動拠点となるセンターと3カ所の地域工房を整備、本村の地場産業として日本各地に出荷されるまでに定着してまいりました。

「文化村」づくりは大変長い時間がかかります。だからこそ本物のむらづくりができると思いますし、光り輝くむらづくりになると思っております。文化を大事にすることは人間を大事にすることにもつながります。心のつながりは目に見えるものではありませんが、特に文化を通した人と人との交流は確かな人間関係を培い、そして何よりもそこに住む人々に自信や誇りを育みうる力があります。自分の古里に自信と誇りを持つことで町や村に魅力を覚え愛着を感じ、地域のために何かをやりたいという気持ちにきっとなると思います。そういう気持ちを抱く住民が沢山いる地域は輝いており、人々も大変明るく元気があります。

自らの地域に自信と誇りを感じたとき、「町」や「村」と言う呼び方にこだわる事の矛盾を感じるのではないでしょうか。読谷村は全国で3番目に大きい「村」としての自信と、そして「文化村」としての誇りをもち、あえて村(むら)にこだわっているわけであります。

呼び方の問題ではなく、そこに住む人々がいかに自分の地域に誇りを持てるかどうかによって地域は光り輝くのではないでしょうか。

どうぞ沖縄にお越しの際は、読谷村へ是非お立ち寄り下さり「文化の香り」を感じていただければ幸いに存じます。心からお待ち申し上げております。