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 先人に学ぶ

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年6月19日

先人に学ぶ

新潟県中野島町長 樋山粂男

きょうは「穀雨」、しっとりと降る雨が大地を濡らし穀物を潤す日とか、暦はすでに春の終りを告げている。そう言えば、水苗代に種籾を播くのも此の頃であった。今は、大方の農家がビニールハウスで育苗している。

小雪の年は春が遅い、今年はつい先頃まで冷たい風に悩まされ、この先の天候不順が気遣かわれている。でも、分水公園の桜は今が満開、呼び物の“おいらん道中”には数万人の人出で賑わったという。

大河津分水公園は、大正11年に、信濃川分水路が13か年の歳月と延べ1千万人の人手をかけて、通水に至ったのを祝って造られ、長汀を彩る6千本の桜並木を擁する県内屈指の桜名所でもある。

わが中之島町は、この公園につづいた信濃川右岸に位置し、母なる川がもたらす恩沢を余すことなく享受する、“コメどころ”である。

さて、エジプトはナイルの賜と言うが、穀倉新潟平野も、長野県を貫流した千曲川が犀川を合し、県境で名を信濃川と改め、更に上信越山系の水を抱えて幾万年もの間土砂を運び込んだ沖積地、ご多分に漏れぬ暴れ川であり氾濫の常習地帯であった。洪水の記録は350年間に100回以上を数えることができる。もちろんこの間人々はただ手を拱ねいていた訳はなく、以前から、2代にわたって全財産を抛って幕府に請願を続けた本間父子の例など、数多くの先覚者達の働きかけがあった。また幕府や明治新政府の動きもあったが、いずれも挫折に終っている。思うに、大規模工事に伴う、地元民の犠牲、莫大な経費負担、技術上の問題などがその理由であろうが、最大の障害は、古くは幕藩体制の分割統治、そして流域各地域の利害の対立、特に新潟港への影響にあったと思われる。

いつの時代でも公共事業の成否には、あまり変らぬ共通点がある。或る先進的施策が実現に至るには、時として痛みを伴う契機がある。大河津分水工事もまた例外ではなかった。

明治29年の世に言う「横田切れ」である。濁流は32粁下流の新潟市にまで達し、死者46人、家屋の流失460戸、田畑の埋没・冠水合わせて6万ヘクタールの大惨事を契機とし、更に自在堰陥没という不慮の災害復旧工事を経て昭和6年に完成した。

以来、信濃川本流には洪水による破堤はなく、泥沼は美田に変わり、新幹線や高速自動車道のはしる田園風景は、快適な生活の舞台となり、穀倉の名をほしいままにしている。

公園の中ほど、可動堰中心線の延長線上の位置に工事完成の記念碑がある。碑の両面に当時の内務省新潟出張所長青山士(あきら)の撰文になる『萬象ニ天意ヲ覺ル者ハ幸ナリ』と『人類ノ為メ國ノ為メ』という文字にそれぞれエスペラント語の訳文を付けた銘板が嵌め込まれている。可動堰工事を担当した宮本武之輔技師は、これこそ当時の土木技師の心意気であり、信条であると語っているが、21世紀に生きる者としても学ぶべきことばである。

わが町の人口は1万3千人、その大半は父祖伝来の耕地に生きる専業農家であった。信濃川とその支流に囲まれた輪中に近い地形は、全面積の6割強が稲作水田、まさに米作りの町である。終戦直後の食糧難のころ、GHQの至上命令で実施された供出米制度では、全国一の供米出荷量をほこり、皇居前広場に造られた供米橋に村長(当時は村)が書き入れを行った名誉は、供米制の厳しさをも忘れさせたのである。こうして培われた誇り(自負心)は、その後の町政に長・短両面で無意識に働き続けている。

いま、厳しい農業・農村の現実の中で、『うるおいと活力にあふれる田園都市(ふるさと)なかのしま』を掲げ、町づくりを推進するに当って大自然との共生の中で、先人が身をもって教え、培ってきた農魂(遺産)を糧として、21世紀の扉を開きたいものと、こころ密かにちかっている。(4月20日記)