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 ダムの詩

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年6月12日

ダムの詩(うた)

兵庫県波賀町長 中田耕一郎

私の町、兵庫県波賀町は県下に数少ない、県営ダムの在る町です。町面積は161.3平方kmと県内では10番目に広く、その94.5%を山林が占め、その約45%は国有林で、ダムと奥地の中国山系分水嶺域の深い山々は下流播洲平野の貴重な水資源地域を形成しています。

昭和31年9月に旧奥谷、西谷の二村合併により町は誕生したものですが、この県営引原ダムと言うのは、その合併よりも数年前に着工され、新町発足後の昭和33年に完成し、貯水を開始して以来、40有余年の星霜を経て、今日も、氷ノ山など北の山々の雪解水を満々と湛え、遅咲きの山桜やこぶしのやまなみを湖面に映して、美しく、静かにその多目的ダムとしての機能を果たしています。

かつてこのダムに近隣の自然公園の地名を取って、その愛称を「音水湖(おんずいこ)」とされた、ダム建設当時の知事、故阪本勝氏は堰堤西岸に建つ竣功記念の碑に、「すゝむ世の、ためとてあわれ、さゞ波の、底に消えぬる、引原の里」と詠われ、ダム建設にかかわった人々の心境を生々しく伝えられている様に、旧奥谷村の中心集落であったこの引原地区の100ヘクタールを超える宅地や田畑、山林と125戸の民家を湖底にするダムは地区を追われて下流隣海部などへ立退いて行かれた多くの人々のさまざまな、人間模様と哀別の歴史を秘めています。

俳誌「渦」を主宰された今は亡き俳人、赤尾兜子先生は、ゆかり深い音水湖に吟遊された日、「夕羽振る、村を沈めし、秋の湖」の句を残されていますし、兵庫県文化章第1号の受賞者で詩人の故富田砕花先生が湖畔に歌碑を建立してくださった時、「音水湖、底の廃墟の、さざめごと幾千夜かけて、聴くべくこの碑」と詠嘆されています。

これ等、明暗どちらかと言えば、「暗」を指向する一連の詩を想い起こすにつれ、行政の責任の立場にある私として、ある心の痛みを禁じ得ないのであります。

と言いますのも、その昔、このダムが構想された段階で、ダム完成の暁には、これが地域のこよなき観光資源となり奥谷村は観光立町として無税村となるまでに発展するなどの話もあり、これ等を夢に、立退者も含め村をあげてこの揖保川総合開発計画と言う国県の施策に協力を惜しまなかった経過があり、ために県当局も「地域に開かれたダム湖」の国の指定を受けられるなどされ、それなりの周辺整備に取り組まれてはおりますが、音水湖はいまだその地域の活力につながる様な威力を発揮し得ず、山の淋しい湖としてひっそりとした佇まいのままでいるのであります。

お盆など、湖底の村をふるさととされる人々が墓参に戻られるたび、口ぐちに、ダムの恩恵に浴する下流都市部のめざましい繁栄ぶりに比べ、年ごとにさびれゆく、ふるさとの情景を、こんなはずではなかったと、そのやるせない気持のやり場は、地元行政の無力のせいと向けられてくるきびしい鋒先きに耐え乍ら公営ダム所在町の苦悩を噛みしめている日々であります。事実、総貯水量2,200万立法mのダムと最大出力5千kwの発電所からの国有資産等所在町交付金は年額1,000万円余りで民営のそれに比べあまりにもその格差は大きく、公営ダムの税源としての価値のなさに、今更の様に法の矛盾を痛感するのであります。

私達が過去何回か近畿中国地方のダムのある町を訪ね、その実態を調べた際、主として民営ダムや発電所のある町では、このダムのお蔭で町が成り立っているとの実感にある団体がかなりあったことが忘れられません。加えて県は水と電気を企業へ売却してそれなりの収益をあげておられる状況です。

愈々、地方分権推進一括法が施行されましたが、いまださほどの実感も変革のきざしもありませんが、まず地方の財源の確立のことを端緒に、どうアクションを起こすか、県営ダムの公正な税源化について様々な戦略をめぐらす昨今であります。