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 自然との共生

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年4月10日

滋賀県木之本町長 藤田市治

私は日本の自然保護行政に大いに疑念を抱いております。何故なら、自然保護団体は、何が何でも自然に触るなという前提で、すべての物事を処理しようとしている。滋賀県においては、この4月、世界八カ国の環境大臣サミットが開催され、また秋には「環境こだわり県」として、第1回に引き続いて第9回の世界湖沼会議が開催されます。

さて「保全」と「開発」とは全く二律背反であります。このウラ・ハラなものをいかにして調和させ、また共生させていくのかということが「美しい自然」を未来永劫に育んでいく今日的課題に他なりません。

例えば「保全」のみでは原生林のままであり、荒廃した山野となってしまいます。それでは決して生き生きとした活力ある自然とはなりえません。しかもそこには人間を初め小動物や多くの動物たちが自然の恩恵を受け、生活をしております。そのものたちを「保全」という冷蔵庫の中に閉じ込めてしまうわけにはまいりません。そのものたちが生きていけるよう生活の「場」を確保してやらなければなりません。

さりとて開発一本槍では、昨今の世界のアチコチで見られる如く、地球規模での自然破壊につながり、遂には開発者である人間自らが自らの首を絞めることとなってしまいます。そこでこれらの両者が共生しうる方途を見出すことによってこそ、初めてより豊かな自然に囲まれた人間生活を営むことができるのではないでしょうか。

わが町・木之本町は、福岡・博多黒田藩の発祥地であり、その始祖「黒田判官源宗清公」より6代この地に居を構えておりました。9代目が黒田官兵衛如水であります。しかもわが町は、北国街道と北国脇往還の接合点であり、街道沿いの宿場町であると共に、平安・室町・鎌倉時代の山岳仏教文化の花開いた観音と地蔵の町でもあります。また僧最澄が中国より日本へ初めて茶を持ち帰り手植えをした処、更に秀吉と石田三成とが三碗の茶により主従の契りを結んだ処、等々茶にまつわる先人たちの大いなる遺産があります。従って、国土庁による山村都市交流モデル事業の一環としての古橋地先の宿泊施設に併設した茶室は、裏千家によりその運営と秋の紅葉の大茶会が催されております。本町は、歴史と文化と伝統に支えられた自然豊かな「賑わいの町」でありました。

しかし日本の表と裏とが逆転した明治・大正以来、町の地盤沈下が甚しく、かつての「賑わい」がなくなって久しい。今、私たちは、この町を活性化させる起爆剤として、関西電力による滋賀県全体の消費電力を賄いうる「自然に優しい」国内最大級の揚水発電所建設に懸命なる努力を傾注いたし、その準備工事の建設におおわらわであります。即ち、私たちは、本町の予算の100年分に相当するこの巨大な国家的事業を手段として、本町の復権をめざしつつ、アセスメントに示された環境を重視しながら、地域振興開発計画の実現に全力投球し、人々が最新式の地下発電所と深山幽谷の両極を満喫できる地域開発をめざしております。

本町の面積の14%を占める平坦部は、2本の一級河川とJR北陸線並びに3本の国道や北陸高速自動車道などによって寸断されてしまっております。従って本町の開発地域は、残りの86%の「山間部」しかありません。しかもここが「碧い湖・琵琶湖」の源としての豪雪による水源涵養地帯に他なりません。しかしそこにも人間は住んでおります。この人たちも他の地域の人たちと同様に、文化的生活を享受する権利を持っております。北欧のオールドタウンのように、そこの人々を移住させ、公園化するのなら別ですが、そうでなければ米国ミシガン州のマキノ島のように、そこに調和のとれた自然的社会を形成していくことが大切であると思います。

ところでわが町の環境影響評価においては、一対のイヌワシが生息していたために、約3年間足踏み状態となってしまいました。しかし山階鳥類研究所所長の黒田藩末裔の黒田長久公は、イヌワシのためにもっと安定した巣を段取りしてやらないと子供を育てようとはしないと指摘をいただいておりました。まさにその通り。一昨年の10号台風で巣がズリ落ち、雌がいずこへか逃げていってしまいました。私は、その原因を早急に追及し、対策を講ずるよう進言しましたが、自然保護団体は触らせませんでした。これでは本当の意味での保護ではないと思います。

また巣の周辺でイヌワシの餌となる野兎や野鼠などが見つけやすいように木を伐採してやらない限り、日本では、折角生れた2個の卵を、餌の不足から、外国のように2個共育てようとはいたしません。保護するためにはそれ相応の保全対策が必要であります。何もしないことが決して「保全」策ではないということを銘記すべきであると思います。

「物をいわないもの(自然)」も大切であります。しかし同時にまた「物をいうもの(人間)」も大切であります。相共に運命共同体として共存しうる双方よりの妥協・調和こそが、遅れた地域・これから発展しようとする発展途上地域に課せられた今日的課題に他ならないと思います。