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 わが町の紹介

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年4月3日

福岡県吉富町長 中家一

福岡県の最東端に位置する吉富町は、東は景勝耶馬渓、その中でも、菊池寛の「恩讐の彼方」で知られる青の洞門を擁する一級河川山国川を挟んで、対岸に福沢諭吉出生の地で有名な大分県中津市、西は福岡県豊前市、北は周防灘に面した、東西1.8キロメートル、南北4キロメートル、面積5.6平方キロメートルの町域をもつ、人口7,500人と福岡県で最もせまい町であります。

古くは、当地方は豊前の国とよばれていたが、孝徳天皇の大化2年の詔勅により、これまで貴族、豪族の領有していた土地等を没収して、悉く公地公民とし、国、郡、里に分かって、国司、郡司、里長を置くことになり上毛郡となった。

その時代、豊前、豊後は一国で豊ノ国と呼ばれており、豊ノ国は古事記伝に「豊はゆたけく大きなる意なり」とあり、この地方は特によく開け、稲のよく稔る所であり、日本を瑞穂の国というように、よく稔る稲田を讃えて起こった地名であると思われる。

本町は江戸時代より中津藩に属し、明治四年廃藩置県により中津県となり、一時小倉県でもあったが、明治9年府県分合で福岡県に編入され、明治22年市町村制施行によって東吉富村となり、昭和17年武田化成工場(現在吉富製薬株式会社)の操業と併せて、昭和17年5月15日町制を施行し、以来吉富町として合併もなく今日に至っている。

私は、昭和62年に町長に就任、まず水の問題に取り組み、町内全域のかんがい用水の確保を図るため土地改良区の揚水ポンプの据替、送水管の布設、又、いかなる干ばつの時でも給水可能な上水道の水源を確保、文化教育の振興のための総合社会教育施設としてフォーユー会館の建設、小・中学校の改修、福祉のためのあいあいセンターの建設、水と緑豊かな町として町内2ヶ所にある丘の公園化、アオシスの場として地区内それぞれに公園を建設し、平成10年度から公共下水道の工事に着手等々、町政の推進に努めて参りました。

本町の道路交通網は、町のほぼ中央を東西に旧国道10号線、これにほぼ並行してJR日豊本線が横断しており、町民の永年の夢であった吉富駅が、平成7年4月に開設され、北九州市から1時間、大分県別府市から1時間の距離にあります。

高規格道路である東九州自動車道が整備計画路線に格上げされ、愈々、東九州の高速化が図られ早期の完成が望まれております。これに伴い、当地方の地域高規格道路の整備も着々と進められ、地域間の交流の連携を促進する循環型交通体系がいちだんと進み、現在建設中の新北九州空港の利用も容易になり、地域経済の浮揚が図られるものと期待されております。

本町の産業は、農業、水産業が基幹産業であり、製造業は吉富製薬が主要産業として位置づけされております。農業は専業農家は少なく、大半が休日に農作業を行う兼業農家であり、後継者不足に悩まされながら昨今の厳しい農業政策に、ようやく対応している状況であります。一方、水産業は周防灘の豊前海区を主とした漁場であるが、その沿岸は遠浅で広汎な干潟を有しているため、海苔、アサリと漁船漁業であります。いたって零細な沿岸漁業であり、近年漁獲資源の枯渇が危惧されているうえ、後継者不足も問題となっております。これが打開策として、漁港の修築事業に昭和57年に着手し、平成12年度でようやく完成を見るに至っております。また、取る漁業から育てる漁業への転換を目指して、漁港に中間育成槽を設置し、車エビ、ガザミ、ヨシエビを育成し海域に放流、又、カキの養殖にも取り組み、まずまずの成果を挙げているところでありますが、時季的な問題もあり年間を通じて収益をあげる方策を考えて行くことが課題であると考えております。

今後、地方分権、町村合併等が進められて参ります。そこに住む人々が自ら考え、自らの責任により、自主的、主体的に町づくりをして行かねばなりません。町民参加による町づくりを進め、町民の笑顔のたえない明るい元気な町づくりを目指していきたいと考えております。