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 自然との共生を求めて

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年12月20日

群馬県町村会長 板倉町長 針ヶ谷照夫

私の町の東側には、3,300ヘクタールという広大な面積を有する渡良瀬遊水地が広がっています。

特に450ヘクタールの谷中湖周辺は車の進入が禁止されていることもあり、ウォーキングやジョギングを楽しむ人には絶好の場所となっています。

私もその1人ですが、お陰様で足には自信がもてるようになり、時折登山を楽しんだりマラソン大会にも参加するようになりました。

今年渡良瀬遊水地を会場に、私の町の主催で行なったフルマラソン大会には私も出場、完走することができ、感激をいたしました。

またこの遊水地には広大なよし原が広がっており、野鳥の声を聞きながらの散策は、少々気分が滅入っている時でもそれを癒してくれる安らぎの場所ともなっています。

しかしこうした渡良瀬遊水地も、その歴史をひもとくと、辛い歴史をもっている場所でもあります。

ここにはかつて「谷中村」が存在し、約380戸、2,000名余の人が住んでいました。

利根川の支流である渡良瀬川が流れ、上流から運ばれた肥よくな土に恵まれた農業地帯であり、また大小さまざまな池沼もあり、漁業も盛んだったそうです。

しかし明治に入って日本の近代化が進められるようになったとき、公害の原点とも言われている足尾鉱毒事件が発生し、渡良瀬川下流地域はたび重なる洪水と、足尾から流れこんでくる鉱毒のために魚も住めない、農作物の収穫も満足にできない地帯となってしまいました。

多くの被害民が足尾銅山の鉱業停止を政府に訴えるべく、何回も請願(押出しと言われた)に出向きました。ほぼ100年前になる明治33年(1900年)2月13日の押出しのときには、利根川を渡ろうとする被害民に対し、これを阻止しようとする警官や憲兵と衝突、多数の負傷者や逮捕者を出した川俣事件もありました。

栃木県選出の田中正造代議士が、国会で必死に鉱業停止を訴えたのもその頃のことです。

明治37年、政府は洪水対策として渡良瀬川最下流に遊水地をつくることを計画、谷中村廃村へとつながりました。

私がここの歴史に関心を持つようなったころ、当時はまだ谷中村出身のお年寄りが何人かおり、村がなくなる。自分の生涯が一変する、その辛かった人生の話しを聞き、思わず涙したこともありました。

近年、都心から60キロメートル、首都圏に残されたこの広大な遊水地は注目の的であり、ここの将来をどうするか論議が続いています。

去る11月7日にもシンポジウムが開催され、私もパネラーの1人として参加をいたしました。

私からは、周辺に住む人達の安全や生活を守る観点から、「治水利水」、「歴史や環境教育の場」の創出、「健全なスポーツレクリエーションの場」を「自然」との共生を計りながら実施すべきであるとの提言をさせていただきましたが、共生というのはナンセンスである。あくまで二者択一であり自然保護を最優先すべきであるとの声も強く、なかなか議論がかみ合わないのが実状です。

21世紀を目前にひかえ、また地方分権を前に各自治体とも町づくり地域づくりに取り組んでいます。

20世紀は、もの一辺倒の時代であったと言われていますが、21世紀は真の豊かさを実現する時代であるとも言われています。

そして本当の豊かさというのは、バラエティーに富んだ、さまざまな選択メニューが存在する社会において、はじめて実現できるのではないかと考えます。これは新しい価値感の創造といえるかも知れません。

そうした町づくりを目指してこれからも努力をしてまいりたいと考えています。