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 「次代」へ

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年9月27日

広島県海田町長 加藤天

昭和17年に海田市町の書記補として奉職し、19年の暮れに現役入営、上海に出兵し20年8月に抗州で終戦を迎えた。

わずか9カ月の兵役ではあったが、その後の人生に絶大なる影響を及ぼした。

復員後、昭和21年10月に再び書記として奉職し今日に至っている。

この町に生まれ育ち、職員として四42年、町長として4期16年通算58年、人生の大半と言わす殆どを役場で過ごした。

振り返れば、終戦前後の混乱期に兵事係や米の統制配給の仕事を皮切りに、役場のありとあらゆる業務にたずさわり、一応、職員としてやるべきことはやったと思っていたが、町長になってからは職員時代とは全く違う立場や考え方を求められ、常に厳しく決断を迫られ、人知れず思い悩む日々の連続である。

今更ながら先人のご労苦に感謝したい。

地方分権により激変を余儀なくされている今日、組織として職員1人1人を如何に住民ニーズにチャンネルを合わせ、積極的に行動させるかがトップに求められているのは言うまでもない。

わが町、海田町は広島市の東部の玄関口に位置する、人口約3万人、面積13.81平方キロの小さな町である。

古くは旧山陽道の宿場町として栄え、お茶屋、脇本陣、人馬継所が設置され市がたっていた。

現在でも国道2号線・31号線及びJR山陽本線と呉線が分岐する交流の町である。

昭和59年に町長に就任し、以来山陽本線海田市駅の南北自由通路の開設を皮切りに、町内循環道路網の整備、公共下水道の整備、ふるさと館、ひまわりプラザ等の施設整備、ひまわり大橋の架橋等々の都市基盤整備を推進し、現在は、総合公園の整備、山陽本線呉線の連続立体交差事業、海田市駅前の再開発事業等に取り組んでいる。

予定どおり21世紀初頭までには都市基盤整備をほぼ終了させ、本格的な少子高齢化時代にそなえて行きたいと思っている。

海田町は、交流の町としての商業集積と、マツダ自動車工業の城下町の一角を締め下請け工場が集中しており、比較的財政状況に恵まれた町である。

しかしながら、本町の周囲は殆どが政令市広島市に接しており、合併問題が常に議論されているところである。

今後、この町をどのような行政組織で運営していくか、改めて大きな岐路にたっている。

分権合併議論とあわせ、自治体としての規模及び守備範囲の設定は非常に難しいところである。

このことは、海田町のみの問題ではなく、国全体のありようとして捉えなければならない問題でもある。

まもなく21世紀に突入していくが、これまでとどこが、どのように変わっていくのか、単なる制度変化ではなく、本質的に住民参加をどのように推進していくかが大きな鍵である。

本町では、平成8年に公文書公開条例を制定するとともに、新たに情報調整室を設置し、これまでよりも繊密で身近な情報伝達を目指している。

しかし、都市近郊の町として投票率の低下や参加意識の低下は止めようもなく、住民参加という意味ではもどかしさを禁じえない。

参加していただく為には、単に伝える情報の量の問題ではなく、質の問題であり、理解される情報を作りタイムリーに送り出し、参加を仰ぐ一連のシナリオの設定が非常に重要である。

世紀を越えて次代の方々に引き継いでいくためには、まだまだ多くの解決しておかなければならない問題が山積しており、責任の重大さを肝に命じながら、当節の雑感としたい。