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 ゴールのない駅伝

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年6月28日

長崎県千々石町長 床井一郎

首長は「ゴールのない駅伝の選手」これは4期16年を立派に努められ惜しまれながら昨年2月次走者に襷を渡された、高田前長崎県知事さんのコメントでした。私も来る11月に近まった次の中継点に向って出走以来の6区目を老脚(75才)にスプレーしながら走り続けている千々石町長です。

我が町は、さきの噴火災害で著名な島原半島の西玄関、普賢岳の西麓、橘湾奥に臨む、面積32.43平方キロ、三方を町域の75%を占める雲仙連山に囲まれた、人口6千人の山と海と清流、豊かな自然に抱かれたふるさとの典型そのものの農漁村です。

陸の軍神橘中佐、天正遣欧少年使節の一人千々石ミゲル、南画の泰斗釧(くしろ)雲泉、郷土が産んだ偉大な三先人は県立少年自然の家も立地し、白砂青松日本百選に選彰された明媚な風土とともに我が郷土の誇りです。

「給仕を命ず、月給13円を給す」私が千々石町役場に奉職したのは昭和13年14歳の春でした。小学校5年生のとき父母と死別し3人の弟妹を抱えて高等小学校卒業と同時に働かせて貰ったのです。周囲の方々の温かい励ましを心の支えとし、不遇も逆境も自分に科せられた試練と常に前向きに受けとめ、給仕だったら日本一の、書記になったら県下でも負けない、係長課長のときは郡内ではと、身近な目標に向って「現在に最善をつくす」をモットーに走り続けてまいりました。

ひるの仕事、灯火管制下未明にかけての独学と苦闘のなかにも精気満々の青年団活動も織りまぜ、それなりに多彩な価値ある青春だった、と反趨しております。

産業土木課長から1期半の助役職を経て、心ならずも町内を二分する激しい選挙の洗礼を受け町長に就任したのが昭和50年12月、満50歳でした。以来一貫して、「美しい自然に調和した、心も、懐も豊かな町づくり」をキャッチフレーズに、「近き者が説(よろこ)べば遠き者来る」の論語の訓を体し、「子どもが生き生きと育ち、おとしよりや障害の方にやさしく、若者が希望をもって頑張る、うるおいと活力に満ちた定住の里づくり」その条件整備が町村行政の要諦との理念を以て1割自治のきびしい財政のなか過疎地域活性化計画に基づき、幹線町道の整備を重点に、土地改良、林道開設、漁港修築等基幹産業の基盤整備をはじめ、海岸防災、建設大臣手づくりの郷土賞の河川公園など観光資源の開発を含め人口規模に見合った教育文化、福祉保健施設、公園等一連の社会資本の充実を図りつつ、簡水の普及、道路網の整備と相まって平成9年度より公共下水道事業に着手、また公営住宅建設と併行して宅地分譲持家促進対策をすすめ、環境の保全と定住条件の整備にも取組んでおります。また町づくりは人づくりから、さきに宣言した住みよい町づくりの、心をテーマとする「生涯教育のまち」の実践活動と、殊にふるさと創生資金を活用しての自から考え自から行う民活の振起を促し、四季折々のむらおこしイベントが逐年活発化がみられますことは心強いことです。

顧みまして就任以来の、心も、懐も豊かなのキャッチフレーズがいささかなりとも生かされたとすれば、2期目以降無投票で地道に継続的に仕事をさせて下さった町民皆様のご支援の賜と感謝致しますと同時に、郷土の先達、橘中佐の遺徳にあやかり「至誠一貫」を座右の銘に自からを律しているつもりの私に対する理解を有難く思うものであります。

4月の町議選に続いて、次は半年後の町長選挙「やれることはやらせて頂いた。」21世紀地方自治新時代の開扉は新進のランナーに、が私の心情であります。が一方下水道の大型事業も中途介護保険制度の発足、ごみ広域処理、地方分権、更には市町村合併の問題等課題山積の折柄、しかも多額の借金を抱え今退くとはなにごとか、との叱声も聞こえてまいり、「ゴールのない駅伝」あれこれ思いめぐらしながら去就に心を砕いている昨今です。