ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村長随想 > 温故知新と幼き記憶

温故知新と幼き記憶

印刷用ページを表示する 掲載日:2025年9月15日更新

大崎上島町長広島県大崎上島町長 谷川 正芳​​

 私の生まれ育った大崎上島は、瀬戸内海のほぼ中央に位置しており、広島県の自治体の中で唯一、架橋で本土とつながっていない離島の町として近年脚光を浴びることが多くなってきました。

 実際、15年ほど前に広島市内の金融機関で住所を銀行員が確認する際、「大崎上島ってどこにあるんですか」と聞かれていたのが、10年ほど前には「大崎上島って、ときどきテレビに登場していますよね」に変わり、一昨年あたりからは「よくテレビで見かけますね」と言われるようになってきました。

 特にここ一年で、「きのえ温泉ホテル清風館が人気投票で『温泉総選挙絶景部門日本一』に選ばれたのはすごいですね」とか、「公立(県立)の中高一貫校・広島叡智学園の卒業一期生の進路が世界ランキング10位以内の超難関海外大学への進学が目白押しですごいですね」と称賛の声を多くいただくようになり、テレビ局からの取材も引く手あまたです。

 これって何なんでしょうね。急に何かが変わったのでしょうか。それともだれか仕掛け人がいるのでしょうか。

 この島は「観光ずれしていない島」と言われ、古くから海に囲まれた環境を生かした造船や海運業、そして温暖な気候を生かした柑橘の島として、モノづくりをベースとした地道で息の長い取組のおかげと思っています。

 つまるところ、広島県内で唯一橋が架かっていない純粋な離島の町であることが、海に根差した産業文化を育てあげ、他にない風土と伝統を紡いできたと思っています。

 島の中でもその伝統を一番引き継ぐエピソードとして、現在は「海と島の歴史資料館」となっている北前船の廻船問屋の旧宅「大望月邸」での宴席の一コマ。今から約130年前、明治時代の中頃のことです。新政府による文明開化政策の一環で、それまで誰でも経験を積めば乗り込めていた船員に免状を義務付けたことに誘引します。その資格を取るために、何とか廻船問屋関係者で力をあわせて船員学校を作ろうという話が頓挫しかけた際、おした屋(大望月家)の大女将の機転がこの島を救ったという伝説。女将のことばで「せっかく近隣の皆の衆が出そろったのに、モテナシもなく帰してしまってはおした屋(大望月家)の名折れ。皆さまにご馳走をふるまわせておくれ」と頼み込んだそうな。それが縁起となって反対意見も消え、皆の総意で海員学校が設立され、現在の国立広島商船高等専門学校へと引き継がれているというお話であります。

 その大崎上島の矜持として、私がまだ小学校低学年の頃の出来事も含めて今でも大切に心の支えとしていることが二つあります。それは、元尋常小学校校長であった祖父と、広島商船高等専門学校教官の父の知人から授かった何気ない一言です。

 祖父は、木造船の釣り船を櫓一本で操り、「流し釣り」として二次離島の生野島の太古の昔から何一つ変わらない自然海浜の湾内を櫓一本で漕ぎつつ、祖父お手製の小さな釣り竿と鉛の重りと、自ら取ってきたエビの餌を付けて次々とチヌ(黒鯛)を釣り上げた時、「昔、この地域に爺さんと同じように自分で作った道具で集落家族みんなの食べ物を取っておった縄文人が住んでおったんぞ」と教えてくれたこと。そして、「大崎上島東野村史」として明らかにされた村教育委員会の谷川潔(祖父)と生野島分校の福本清の二人の“キヨシ”による石器・土器調査の一端を教えてもらったのです。

 また父は、旧制中学時代のあだ名は「ゼゴ」。イルカの仲間「スナメリ」を芸南(安芸国の南部)地域では「ゼゴンドウ(略してゼゴ)」と称しており、スナメリのように海の中を潜りまわっていたそうです。

 若くして地元商船学校の教官となってからも練習船の係留している桟橋で、生徒と潜り比べをして水深10メートルの底砂を手づかみして浮かんでくるなど、生徒と同じ目線の遊び心を持っていたそうです。

 その父が商船高等専門学校退官後、スナメリ保護活動団体「芸南スナメリの会」を町役場内に設け、地元小中学生を対象に、スナメリ観察会を行っていた矢先、早世してしまい、その活動が休眠状態となっていました。

 しかし、父の大親友である人から「その遺志を継ぐのは息子のあんたしかおらん」と説得されました。その熱意にほだされ、一般社団法人Zegon(ゼゴ)を設立。大崎上島学で小学校4年生への環境教育を続けていることで、わが母校の町立東野小学校が環境教育で表彰される名誉に浴することになるまで定着してきています。

 大崎上島で生まれ、育って、55歳にして大崎上島にUターンしたことは、母親の介護というきっかけがあったにしても、祖父・潔(きよし)と父・正(ただし)の何気ない矜持を息子として引き継いで、いつかはわが故郷に帰ってくるという、ごく自然な思いが引き継がれているからに他ならないからです。

 この4月で町長に選ばれて2年が経過し、10年先の町政羅針盤である「大崎上島町第3次長期総合計画」を1年半かけて町民とともにまとめ上げてきたばかりです。

 そのタイトルは

「大崎上島町第3次長期総合計画」

海景色の映えるまち~瀬戸内海から幸せつなぐ「豊かな自然と学びの島」~

を標榜し、町行政と町民が手と手を携えて地域創生の第一歩を踏み出そうとする強い意思表示をしたものです。

 策定にあたって、最も重要な施策課題は、全国津々浦々共通の「人口減少問題」であります。

 分析を重ね現在人口6,700人が20年後には最低4,500人を維持する目標を立て、持続可能な基礎自治体の条件を明確に打ち出しました。

 その原点は今現在の人口構成の分析で、外部からのIターンの人と全く同じ規模で、地元出身者のUターンがとても重要であることが明らかになりました。

 そのため、具体的な施策としましても、一つは、私の祖父から受け継いだ、大崎上島の矜持をもとに、旧3町に分かれていた旧町史をひとまとめに再編して、縄文時代からの大崎上島町を「温故知新」の精神のもと歴史から学んでいきたいと痛切に思っているところです。

 もう一つは、私の父の思いを引き継ぎ、脱炭素による循環型社会モデルを明らかにするため、スナメリを象徴とした「海を守る」プロジェクトを推進し、ブルーカーボン先進地としての施策展開を考えていきたいと、関係企業等に働きかけているところです。

 そして最も大切なことは、今、世界のさまざまな地域での紛争による殺戮が「正義」という一方的な原理主義によって、人間本来として大切にされてきた基本的人権思想が踏みにじられています。

 人間本来の原点を取り戻すため、今注目を浴びている古代ゲノム解析により紐解く試みが世界中で進んでいます。

 遺伝子的なエビデンスを突き詰めていくと、ホモサピエンスとして今生き延びてきた人類は、全く同じ遺伝子ゲノムを持っていることが証明されたのです。地域によって太陽光(紫外線)から身を守ることで、熱帯地域と寒冷地域では、肌の色が白黒等で違っているにすぎず、宗教的に戦争のもとになっている人種で差別する理由は全くナンセンスだそうです。単に自分たちという一定の枠組みを作ることで自分たちに都合の良い原理が横行しているにすぎないという結論が出ているのです。

 私が学生の頃、「人類、皆兄弟!」というフレーズが一世を風靡していました。

 日本列島に4万年前に南アフリカから人口増の意味で移動してきたホモサピエンスの先頭集団。つまり、移住パイオニアであったその人たちは、氷河期が終了したことで日本列島から移動する必要もなく、豊かな縄文文化にみられるようにすべての民が平等で殺し合いもなく、みんなが「一笑懸命」笑顔で助け合って数万年生きている文化風土を守ってきたという事実を、もう一度振り返る必要があると考えています。

 この自然に恵まれ、人間の力の及ばないなにがしかの存在、東洋とか西洋とかの区分を超えた「Something Great (サムシング グレイト)」という人類共通の言葉でくくることのできる概念。縄文人たちこそが、すべての渡来人を受け入れて、共通の子孫を生み育ててきた日本人のルーツそのものであります。これまで人口減少による消滅可能性自治体と呼ばれ、そのレッテルが貼られてしまう島しょ部や山間部の地域であればこそ、かつて日本人の先祖が生き生き幸せに自給自足という循環型社会の実践者たちであったことを再認識する必要があります。

 産業革命という数百年続いてきた発展・消費型の経済から、まさに循環型社会の在り方そのものを先取りし、今後数百年どころか、数万年先を見据えた地球規模の新しい経済理念、つまり「経世済民」という経済本来の原点に回帰する理念を示していければと夢想しております。

 思いとしましては「温故知新」というキーワードを胸に、世に問いかけてみたいと考えているところです。