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興部酪農の小さな産業革命

印刷用ページを表示する 掲載日:2025年7月21日更新

北海道興部町長 硲 一寿北海道興部町長 硲 一寿​​

 興部町は北海道のオホーツク海沿岸の町で和人定住から137年が経ちます。アイヌ語の「オウコッペ」を由来として、オ(川尻)、ウコッ(合流する)、ペ(もの)という意味を持ち、現在も2級河川など5本が流れ集落を形成しています。町の面積は362.55km²、人口約3,500人と極めて小規模な自治体です。私はこの町で生まれ、農家の4代目として育ち酪農業を25年間営んできました。本町は河川が多いため当時の耕作地は約2,500ha程度で、古くは畑作農業と沿岸漁業、そして林業が主体の町でありました。1953年から4年間打ち続いた大冷害・大凶作を契機に寒冷地農業の確立が強く求められ、1955年酪農振興法に基づく「高度集約酪農地域」指定を受けて、町と農協・農民が一体となり酪農へと一大転換をめざしたのです。歴代町長や組合長のご苦労は並々ならぬものであったと思うのですが、このことが70年を経た今日の興部酪農を築く始まりでありました。本町の取組は酪農業の「産業革命」とも言える取組を三度にわたり実現してきましたのでお伝えしたいと思います。

 まず、本町が酪農専業地帯となるには乳牛飼育に必要な農地の不足が大きな問題でした。本町は海抜5mと低く泥炭地や笹原が多く、さらには5本の河川に沿って手の指のように低い丘陵のような山が内陸から海に向かって続いていました。先達は、この笹原や山を草地開墾しようと考え、国営パイロット事業・道営ほ場整備事業さらには農協が事業体となる団体営事業により33年後の1988年には2.64倍の約6,600haの農地を確保することが出来たのです。特に笹原ではプラオでの畑起こしが難しく、新たにブルドーザーによるクマ笹の除去と、表土が少ない土地なのでディスクプラウを使った耕法を初めて導入するなど、町・農協が実験ほ場で独自の試験を繰り返し本町に適したほ場造成方法を編み出し、農協が実施団体として造成事業を展開したのでした。『農地の拡大を自らの手で行う』これが興部酪農の第一次革命です。

 牧草地が整備され、次第に飼育頭数は増え生産量は拡大しましたが、当時生乳の集荷方法は輸送缶(20L)でした。これでは生産量の増加に対応しきれないことから、1971年には当時の農協組合長が電気店と考案開発した水冷式のバルククーラーを導入し、ミルクローリー車による集荷を全道に先駆けて始めました。当然このためには農道や電力供給の整備等も併せて取り組まなければならなかった『生乳の衛生的な生産と物流の整備』という今では当たり前とも言えますが、当時としては革新的取組が第二次革命です。

 飼養頭数が増えるにつれ放牧主体からサイレージ主体へと飼料給与形態が変化していきます。これまで経営は個人というのが酪農の主流でしたが、時代と共に共同経営あるいは共同作業等が繰り返し導入され、牧草やコーン等の飼料収穫作業も共同作業から業者委託等へと変化していきますが、これがコントラクターと言われる形態で、建設業者等が参入し現在全道で展開されています。しかし、興部町ではサイレージを共同で収穫、貯蔵するセンターを作り、さらには一定の栄養価の飼料となるよう配合して加入農家に届ける、いわゆる乳牛の給食センターのような組織を、1998年5戸の農家が立ち上げました。これが現在全国の酪農地帯に普及しているTMRセンター(混合飼料を調整・配送・給餌する施設)の原型となりました。現在、町内では5つのTMRセンターが組織され、生産乳量64,000t、一戸平均1億3千万円の粗収入を上げられる酪農に成長してきました。TMRセンターの普及は単なる飼料調整だけではなく、雇用や経営の在り方など『企業としての酪農に成長させる』大きなきっかけになっているのです。これが第三次革命と私は考えます。

 条件不利地の本町で冷害を克服するため導入した酪農は、農業の中でも毎日収入が得られる産業です。そして、働き手にも関連産業にも毎日仕事が生まれる、裾野が広く力強い、まさに基幹産業へと成長したのです。先達の思いが世代を超えて受け継がれ、今日の興部酪農に育てて下さいました。私はこれを「興部酪農の小さな産業革命」と呼び、町の誇りとしてこれからも町づくりにつなげてまいります。