千葉県一宮町長 馬淵 昌也
「なぜ一宮町に来て、町長になったの?」というご質問を頂戴することがよくあります。私は、一宮町の出身ではなく、神奈川県の戸塚で育ちました。また、もともとは東京の大学で中国思想史研究の仕事をしていました。ですので、いま一宮町で町長をさせて頂いていることを不思議に思われることが多いのです。
「なぜ一宮へ来たか」、その理由は、一言で言えば、里山や農地があり、大きな海があって、自然が豊かでありながら、東京にも直結されていて通勤できることです。私が小さい頃の戸塚は、市街地が東海道沿いにあるのみで、その裏手には田んぼや里山が広がっていました。私はそこで大変幸せな幼少期を送りました。しかし、その素晴しい環境は小学生時代には開発で破壊され、すべて人工物で埋め尽くされる殺風景なものとなってしまいました。そこで、現在の妻と結婚して子どもをもうけたとき、自然の多い千葉県に移住しようと決めたのです。一宮にしたのは、中古の住宅を発見して気に入ったからでした。
移住してからは、一宮町が想像以上に素晴しい町であることに、驚嘆するばかりでした。海あり山あり川あり田んぼ有り、旧市街有り新市街有り、小さい中に素敵なものがいっぱい詰まった宝石箱のような町だと深く感銘を受けました。そして、この素晴しい町を、もっと盛り上げて輝かせるために、私自身もお手伝いしたい、と思うようになりました。
私が移住してきた頃、千葉県長生地域は、平成の大合併の大波にもまれていました。茂原市中心の広域合併が議論されていたのです。私は新参者でしたが、一宮町にはまだまだ発展の余地があるのに、その自己決定権を永遠に失うのは大変残念だと思いました。そこで、地元の皆様と相談の上、私が中心となって、「合併には慎重に」という声をあげることとなりました。幸い幅広い皆様のご賛同を頂き、最終的には議会で合併案が否決され、一宮は自立を確保することとなりました。
その後は大学に勤めながら、自分のできる範囲で町づくりのお手伝いをしていましたが、自ら行政の先頭に立って町のために貢献したい、という気持ちを固め、2016年に当時勤めていた大学を辞めて町長職に挑戦しました。幸いにも当選でき、今日まで、オリンピックやコロナという世界的な波に巻き込まれながら、なんとか住民の方に支えられて一宮町を率いてきました。現在のところ、防災や子育て・教育の増進、公共建築の更新、住民が主人公の行政の確立などの時代的課題に取り組む中で、多くの住民の方に容認して頂けるレベルの成果を挙げてきていると思います。
さて、日本では、一般には学者はオタク的な人の職業だとみられています。私も町長就任直後は、学者に何ができるの、と揶揄されました。確かに、日本では学者は変わり者とされています。しかし、中国を中心とした東アジアの諸国では、学者が政治を行う主体であるという長い伝統があります。日本では武士と、江戸時代以降は商人とが政治を仕切ったわけですが、そのほかの国では、古典に通暁した学者こそ、政治を担うものとされていました。私は中国思想史を大学で研究していましたが、私が研究する中国の学者たちは、誰もが経世済民の志とともに実践に従事し、様々な立場で地域を支え発展させるための政治活動に邁進していました。そういう中国の知識人たちの生き方に深い感銘を受け、自分も応分の社会的責任を果たして、地域社会の福祉の確保・向上に直接尽くしたい、と思うようになりました。大学は、居心地はよいけれども、社会とは隔離された温室です。ここを出て、直接社会のために働かなくては、学問にも人生にも意味はない、という気持ちが、私の方向転換を支えたもう一つの理由でした。
現在三期目ですが、今後も、小さくても輝く、“サーフィンの聖地”の町で、住民と行政の協働の新たな原理と仕組みを確立することを最終目標として、精一杯奮闘してまいります。