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悪ガキから村長へ

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年3月11日

千葉県長生村長千葉県長生村長 小髙 陽一​​

 長生村は、令和6年1月1日現在、人口13,515人、房総半島九十九里浜に面し、温暖な気候に恵まれ、年間を通して過ごしやすく、住めば「長生き」笑顔があふれる千葉県唯一の村です。

 東京都心からは約60㎞、県都千葉市からは約30㎞の距離にあり、西部から東部にかけて国道128号線とJR外房線が通っており、村内にはJR八積駅があります。千葉駅まで45分、東京駅までは隣の茂原駅から特急で60分、そして成田国際空港まで車で1時間10分と、首都圏や空港への交通利便性にも恵まれた立地条件にあり、「そこそこ田舎、そこそこ都会」なのも自慢の1つです。

 夏の風物詩、尼ケ台総合公園で行われる「ちょうせい盆踊り大会」で流れる「長生音頭」では、大物歌手の都はるみさんが「ハワイアメリカお隣同士」と太平洋を望む村を歌っています。

 昭和の大合併で長生村が誕生したのは、昭和28年11月、私が生まれた翌年でした。小学生の頃、地域にはたくさんの子どもがいて、最年長の親分を筆頭に、みんな仲良く徒党を組んで遊んでいました。

 3、4年生になると、1人1本ナイフを持ち歩き、遊び道具を手作り。ゴム鉄砲と呼んだパチンコで青栗や柿を落とし、親分が落とした野鳥を焼いてもらった肉は本当においしかった。夏休み、小川をせき止めて、フナやドジョウ、ナマズ、たまにウナギを捕まえ、食料のない時代にはこれが子どもにとって大変なご馳走でした。家の手伝いをして10円をもらうと、5円で揚げせんべいや飴玉くじを買ったものです。

 物心ついた時から父親が村議会議員をやっており、その七光りで私は悪ガキ。小学4年生から6年生まで担任の教師が厳しく、母親が呼び出されたことも度々。でもそのおかげで中学校ではすっかり改心して、生徒会長にもなりました。選挙の相手は学年一の秀才で、テストでトップを譲ったことがなく、私は一桁をとるのが精一杯。先生からは、「どちらか副会長ではだめか」と言われましたが、当時の彼女との交換日記に「会長になる」と書いた手前、引く訳にはいきません。3つの村が合併してまだ13年。村意識が残るなか、旧一松村でバスケ部の先輩と組む秀才か、旧八積村でサッカー部の先輩と組む私か。残る彼女の住む旧高根村の生徒をどう取り込むかが勝負でしたが、ジョークを交えて笑顔で演説した私が、先輩の票読み通り100票差で当選しました。しかし、この経験が45年後の村長選につながるとは思ってもいませんでした。

 高校は、親から離れて寮生活が魅力の木更津高専へ。1年で先輩から頼まれ寸劇の脚本づくり。この劇が大ウケで脚本家を夢見たこともありましたが、当時社会党の村議をやっていた父親の影響もあり3年生から学生運動の道へ。「やるだけやってみろ、骨は拾ってやる」が父親の助言でした。おかげで4年を留年し、5年通って中退しました。今でも選挙のリーフレットでは、長生中生徒会長と木更津高専中退は消せません。

 東京には何度も行きましたが、人の多さと空気が合わず、20歳になり「成人式を自由に企画して」という大らかな話をいただき、村で暮らす決心をしました。消防団、体育協会でサッカー部を立ち上げ、青少年相談員、体育指導員、PTA会長と、41歳で村議になるまで役を引き受け続け、離婚の危機も何度か。そして村議5期目59歳で村長選、最初で最後のチャンスがやってきました。相手候補は3期を目指す現職で、1期目は当時の議長に勝ち、2期目は保守系議員をダブルスコアで圧勝。「勝てる訳がない」と母親も言うくらい劣勢でしたが、私には少しだけ光が見えていました。現職は革新系で、村政運営に批判も出ており、2人とも八積地区。一松地区は現職が強いが保守系の多い高根地区で頑張ればという、あの中学の選挙と同じです。結果は深夜11時半、57票差で私が当選しました。

 以来、3期12年が終わろうとしており、6月30日が4期目の挑戦となります。