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3人の恩人

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年12月11日

金子 政則岐阜県町村会長・八百津町長 金子 政則
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 岐阜県八百津町は、長野県から愛知県伊勢湾に注ぐ大河「木曽川」の中間点、岐阜県東部の山間部に位置しています。

 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ避難民等に対して、国の意に反して日本の通過ビザを発給し、数千人もの尊い命を救った元外交官・杉原千畝氏の出身地であります。この功績を後世に伝えるため、2000年、町に「杉原千畝記念館」を開館し、世界へ平和を発信しています。

 まちの自慢では、高さ215mを誇る、日本一のバンジージャンプがあります。秋には町内産の栗を使った和菓子「栗きんとん」が名物で、例年9月からの新栗解禁時期には県内外から多くの方が訪れています。

 さて、私の人生における3人の恩人をご紹介します。

 1人目は、牧野祐平先生(高校時代の野球部監督)です。

 私の高校時代の恩師、野球部監督が病で入院中の病院にお見舞いに伺った時のことです。先生はベッドから私に向かって「おおっ金子か。もうアウトや」とおっしゃいました。細くなった先生の足をさすっていますと、先生はにこっと笑みを浮かべられて、「お前いくつになった。毎日の練習思い出すなあ~。きつい練習に耐えたお前だから、これからの人生必ずしっかりと生きていけるぞ。頑張れや」小さな声で囁かれました。私は熱いものがこみ上げてくるのを覚え、病室を後にしました。その3日後、先生は亡くなられました。

 牧野祐平先生という高校時代の恩師から野球を通して教わった、生きる力、考える力、勇気は、人生において忘れることができないものであり、先生には「感謝」の想いで一杯です。

 2人目は、田中邦衛さん(俳優)です。

 今は亡き田中邦衛さんは、ドラマ『北の国から』で愚直な父親役を演じられた俳優です。

 ある時、こんなお話をしてくださいました。「日本は成長に何を求めてきたんだろう。その陰でいろんなものがこぼれ落ちてしまい、子どもたちの目から輝きが失われてしまった。そんな日本の落としもの、人々の忘れものを拾ってあげたい。そうすることで役者人生を削っていきたい。削ることを問い詰めていきたい。表現を削り、自分を削りながら風と波に漂う人生を続けたいと思う。世間の人がそれを見て『あ、何かこそばゆいな』って感じてくれる。そんな存在でありたい。」また、仕事で海外にもよく出掛けられ、「貧しくてもおおらかな東南アジアの人々の姿や澄んだ目は人の痛みや輝き、優しさが経済成長とは関係のないことを教えてくれる」と言われました。

 邦衛さんが、にこっと笑って温かい手の中で、私たちが忘れたものを拾って温め、「こんなもんが落ちてるよ」と放り投げてくれるような声が今でも聞こえてきます。

 こんな感動的なお話を幾度となくお聴きするたびに、真っ直ぐな人柄が多くの人に愛されたのだろうと思い起こしています。

 3人目は、田中澄江先生(劇作家)です。

 花の百名山の著者、田中澄江先生とは、笠ヶ岳、恵那山などをご一緒に登り、花を学び、歴史を学び、人生を学びました。数年前のことですが、出版社から一冊の本が届きました。

 その本の題名は『夫の始末』。本の内容は、絹という名の主人公が60余年の結婚生活の中で夫という男性にどう対処してきたかという女の軌跡が鮮やかに描かれていました。先生は、60数年連れ添って90歳で亡くなられた夫の劇作家・田中千禾夫先生の遺影が花と共に飾られている部屋で、私に向かって机を叩きながら、「こうしてここを叩いて、『冗談じゃないわよ、さっさと先に逝っちゃって、まだ成仏させてやらないから、安らかにお眠りなさいなんて言ってやらないよ。お化けになって出てらっしゃい。』といつも言ってるの」そして、「次の山のお話、高い山は登り尽くしたし、これからは低い山に出掛けたいわね。歳を取ったらどんどん登らなくては駄目。そうしないと筋肉が硬くなっちゃうの」とおっしゃいました。

 その年の夏も先生と佐久の天狗山に登り健気で美しい山に咲く花に出会うことができました。

 戯曲や小説など幅広い執筆活動で知られる劇作家の田中澄江先生の葬儀ミサ・告別式は、東京カテドラル聖マリア大聖堂で盛大に行われました。

 かつて、澄江先生はおっしゃいました。「私は熟年という言葉は使わない。人間はいつも熟しているものだから。ポトンと地に落ちる時は本当に熟した時。花も枯れれば落ちる時が死ぬ時だから」。

私の心。人生の師でもあった巨星が落ちた。