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いなみ野台地の歴史 ー水をもとめてー

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年9月18日

兵庫県稲美町長 中山 哲郎兵庫県稲美町長 中山 哲郎​​

 稲美町は、兵庫県南部に位置し、神戸市、明石市、加古川市、三木市に囲まれる、面積34.92km²、人口約3万人の町です。農地やため池などの緑あふれる田園風景と、地域の豊かなつながりや、子育てがしやすい良好な住環境が特徴です。

 地形は「いなみ野台地」と呼ばれる洪積台地で、大きな川や山はありません。瀬戸内式気候のため降水量が少なく、かつては農業用水の便が極端に悪い地域でした。このため先人たちは水をもとめて多くのため池を造り、さらに、疏水事業により遠方から水を引き、まさに血の滲む努力の末に豊かな水に恵まれた現在の稲美町を作り上げました。

 現在も、甲子園の12倍の面積を誇る兵庫県内最大の加古大池や、兵庫県内では最古の白鳳3年(西暦675年)築造と言い伝えのある天満大池をはじめ町内に大小88か所のため池が点在し、ため池の面積は町の面積の実に約11%を占めています。この豊かな水を利用し、町内では稲作のほか西日本有数の収穫量を誇る六条大麦、ハウス園芸や露地栽培による野菜づくりが盛んで、年間を通して新鮮なトマト、キュウリやキャベツなどが生産されています。これらの農産物や特産品「いなみのメロン」は、町内の直売所においても多くのお客様からご好評をいただいています。

 この度は、このように水をもとめて苦労してきた稲美町の歴史についてお話したいと思います。先ほど述べましたように県内最古の天満大池が築造されたとされるのが白鳳3年(西暦675年)、万葉集にも「いなみ野」として詠まれた地域である稲美町では、時が進み江戸時代には姫路藩の援助を得て大規模な新田開発が進むとともに、多くのため池がこの頃に築造されました。それでも元々雨が少なく、大きな川も無い地域であったため、米作りに必要な水を十分に得ることが出来ず、度々、水をめぐって集落同士の争いが起こったそうです。そのため、古くから水の少ない土地に適した綿花栽培が盛んに行われていました。

 明治時代に入ると、いなみ野の地にも激動の波が押し寄せてきました。外国から安い綿が輸入され綿が売れなくなり、また、「地租改正」により土地に税金が課せられるようになりました。さらに日照りによる水不足が重なり、人々の暮らしは本当に厳しいものとなりました。

 そのような中、米作りに必要な水をもとめて疏水事業がスタートしました。この疏水事業はいなみ野台地から遠く離れた淡河川(今の神戸市北区)から水を引くという正に国家的プロジェクトであり、当時としては最新の技術であった山と谷を越えるためのサイフォン工法、そしてそれに使用するイギリス直輸入の鉄管などが活用されました。多くの住民がその工事に従事し、難工事の末、明治24年に水路総延長26・3㎞にも及ぶ淡河川疏水が完成しました。当時の人々の喜びは図り知れず、耳を澄ませば今でも「水だ、水がきたぞ!」と歓声が聞こえてきそうです。その後、淡河川疏水に続いて山田川疏水も完成し、この地域は一大穀倉地帯となりました。

 現在、淡河川・山田川疏水は、東播用水事業として引き継がれ、さらには近代化遺産として「世界かんがい施設遺産」にも登録されています。

 そして、この疏水事業を地元の人々とともに推進したのが、初代加古郡長である北条直正氏で、国や県と粘り強く交渉するなどして人々の窮状を救ったのです。

 北条直正氏は疏水事業だけではなく、当時の明治政府が進めていた殖産興業にのっとり、ワイン醸造を目指す日本で最初の国営の葡萄園の誘致にも尽力しました。しかしながら、明治13年に開園した国営播州葡萄園は、軌道にのりかけたものの明治18年に害虫のフィロキセラの発生や台風の影響などにより大きな被害を受け、その後の国の政策転換などもあって、廃園となってしまいました。やがて水田へと形を変えて、時の流れとともに、そこに葡萄園や醸造場があったことは人々の記憶から失われましたが、平成8年に地中から醸造場の跡地が、翌平成9年には木箱に入ったワインの瓶が発見されました。もしも、この一大国家プロジェクトが成功していればという思いはありますが、その後の日本のブドウやワイン造りのための大きな遺産となったことは、紛れもない事実であると誇りに思います。

 そして、令和の時代となり、稲美町も少子高齢化、人口減少、農業の担い手不足などの多くの課題がありますが、先人の築いたこの稲美町を住民の皆さまとともに守っていきたいと決意を新たに頑張ってまいります。