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復活「桂木ゆず」

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年3月13日

井上 健次埼玉県町村会長・毛呂山町長 井上 健次
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「柚子って越生町の特産品でしょ」

かつて毛呂山町の特産品として名が知られていた「桂木ゆず」は、いつしか過去からの名声を失っていた。

町議会議員時代「なんとかしなければ」と、毛呂山町の町長選挙に立候補を表明、平成23年4月の統一地方選挙で「毛呂山町の桂木ゆずを復活させます」を政策の一つに掲げ、当選を果たすことができた。

毛呂山町の特産品「桂木ゆず」の歴史は古く、江戸後期1820年頃に記された「新編武蔵風土記」には、毛呂山町滝ノ入地区の土産として「柚子を数十駄」(一駄は135キログラム)産出していることが紹介されている。

町内の滝ノ入地区だけでなく、毛呂山町の山あいにある阿諏訪地区、大谷木地区も南斜面で風当たりが弱く、霜もほとんど降りず、柚子に適した条件が揃っていたことから柚子栽培が盛んとなった。昭和6年の郷土史にも、年に350~400箱(1箱400個入り)を東京神田市場に「桂木ゆず」として出荷された記録が残されている。

このように昭和初期、毛呂山町の柚子栽培が転換期を迎えた背景には、毛呂山町大字滝ノ入字桂木地区で柚子栽培をしていた串田市太郎氏が「将来、日本人の食生活は変わる。柚子のような香りを食べる時代が必ず来る」と考え、養蚕から経営転換を図り、市場出荷のために柚子栽培を始めたことがある。

以来、柚子栽培は毛呂山町の山あい全域に広まり、「桂木ゆず」として全国に名が知れわたり、昭和30年代には、お隣の越生町やときがわ町にまで柚子栽培が普及した。

そのような毛呂山町の「桂木ゆず」だが、長い年月にわたり出荷販売を受け持っていたJA(農協)任せと、特産品に対する行政の取り組み不足が起因し、マスコミからも一般の消費者からも「柚子の産地は毛呂山町」ということは忘れられ、毛呂山町の特産品ではなくなっていた現実がそこにあった。

そして、平成23年から毛呂山町の「桂木ゆず」復活への取り組みが始まる。

まず、越生町とときがわ町の行政および柚子の生産農家にも加わっていただき「桂木ゆずブランド協議会」を立ち上げ、「桂木ゆず」をブランドとして商標登録することができた。

また、「毛呂山町の桂木ゆず」を東京都内や埼玉県内の駅を使い、町議会議員の協力もいただいて無料配布を行ったり、東京都内を結ぶ私鉄10両編成すべての車内を「桂木ゆず」の広告で独占する〝広告貸切列車〟を実施。これは、まさに圧巻のPRとなった。

実生による数十年という柚子の老木から生まれる「桂木ゆず」は、成分分析によって関西地方の産地化された柚子より香りや個々の成分のどれを取っても格段に高いことが証明され、女子栄養大学による「桂木ゆず」を使った菓子の発案から、和菓子の大手企業によって商品化され、毛呂山町を代表する「桂木の真珠」という土産品が通年販売されることとなった。

そんな折、桂木ゆずの搾汁施設を町内の加工センターに建設する計画となり、地方創生拠点整備交付金を活用して「柚子の搾汁棟」が完成。この施設によって、柚子の生産農家にあってはB品C品の箱詰め販売できない規格外の柚子を搾汁液として販売できるため「ロスが少なくなり、収益増になった」と、喜びの声を聞くことができ、加えて販路が拡大して大手企業から「柚子の搾汁液」の引き合いも多くなってきている。

令和5年1月22日、大手新聞に「桂木ゆずでリラックス 埼玉・毛呂山町特産 炭酸入浴剤に」という記事が掲載、日本最大のドラッグストアを展開するウエルシア薬局がアース製薬と連携して「桂木ゆず」を原料としたお風呂の炭酸入浴剤を開発、全国のウエルシア1768店舗で販売されて売り上げが好調とのこと。

数年前から、柚子の季節を迎える11月中旬には、テレビなどほとんどのマスコミが「日本最古の柚子の産地、毛呂山町で桂木ゆずの収穫作業が始まりました」と報道されるまでとなった。

今では「柚子って毛呂山町の特産品だよね」。

その声を聞くたびに、行政としての仕事ができた喜びを感じている。