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人生のターニングポイント

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年9月19日

橋元伸一宮城県山元町長 橋元  伸一​​

 

わがまち山元町は、宮城県の最東南端に位置し、東西約6㎞、南北約12㎞、面積64・58㎞の小さな町です。国道6号、常磐自動車道、JR常磐線が通り、仙台空港まで約25㎞、仙台まで約40㎞で、太平洋に面しており夏は涼しく、冬は温暖で雪の少ない、大変過ごしやすい仙台のベッドタウン的な地域です。

この桃源郷のような町で、私は11年前、未曾有の大災害に遭遇しました。

2011年3月11日14時46分。

そう、東日本大震災です。

当時私は、JR常磐線山下駅前で家族経営の食料品店と簡易郵便局を営んでいました。その日は、少し遅めの昼食を済ませた後、近所に配達に出かけました。玄関でお勘定をしていたその時です。突然これまでに経験したことのない激しい揺れに襲われました。何かに掴まっていないと立っていられないのではなく、掴まっても立っていられない、近くに爆弾でも落ちたのではないかと思うくらい大きな揺れ、衝撃でした。そしてそれは、とてつもなく長く続いたように感じました。お客様の安全を確認し、挨拶もそこそこに慌てて店に戻ると、店内はありとあらゆるものが落下、散乱し大変なことになっていました。

しかし、この時点で私は、案外冷静というか、のんきというか、これまでにない大きな地震だとは感じていたものの、「とりあえず店を片付けなければ」くらいにしか考えていませんでした。そう、あのどす黒い海水が押し寄せてくるまでは。なぜそこまで切迫感がなかったかというと、いくつか要因が挙げられます。ひとつは直後に停電になり、店内に流れていたラジオが止まり、防災無線もよく聞こえず、大津波警報が発令されたことにまったく気づかなかったことです。もうひとつは、店舗と住まいが海岸から直線距離で約1・5㎞離れており、防潮堤や防風・防砂林があること、海と店の間にある目の前の常磐線も約2ⅿの高い土手を築いた上に施設されていたことから、通常海は見えず、今回被災するまでこんなに海が近いとは思っていなかったこと。そして、この環境ゆえに「何重にも備えがある」と勝手に思い込んでいたかもしれません。極めつけは、40年前の宮城沖地震です。この地震では、ブロック塀の下敷きになった方を中心に30人弱の方がお亡くなりになりました。しかし、この時はパシャリとも津波は来なかったのです。あの時よりは、確実に揺れが激しかったのですが、それでも津波がここまで来ないだろうという油断があったのは確かです。

結局、地震発生から1時間後(これも正直こんなに経ってから来るとは思わなかった)、地を這うようにどす黒い泥水が流れてきたかと思うと、みるみる水位が上昇し、店舗や家屋を含め周囲はおよそ2メートルの高さまで海水に浸かりました。ほぼ同時に駆け出して避難した妻と長女は、3階建ての隣家の住人に救われましたが、私と父は流されてしまいました。私は父を抱えながら、浮いていた車のタイヤにしがみつきました。流れてきた瓦礫をよけ、傷だらけになりましたが、とにかく必死で傷には気づきませんでした。それよりも、前述のようにあまり雪の降らない山元町に、それも3月、なぜかあの日は雪が降ってきました。首まで海水に浸かった身体は徐々に感覚が失われ、年老いた父は私の腕の中で息を引き取りました。よく1分1秒を争うといいますが、1分なんてありません。同時に避難しようとした4人でこうして生死が分かれるのですから。各自治体で避難訓練をなさると思いますが、ぜひこのことを強調して真剣に訓練に臨むように声がけして頂きたいと思います。

結果、私は命拾いをしたわけですが、津波が引いた後の惨状は筆舌に尽くしがたいものでした。辺り一面瓦礫に埋め尽くされ、中にはご遺体もありました。歩く道などありません。誰に言われたでもなく、重機を持つ有志が涙を流しながら懸命に正に道を拓きました。日本中から警察、自衛隊、消防、ボランティアといった方々が駆けつけてくださり、寸暇を惜しんで復興のために汗を流してくださいました。また、原発の影響を恐れたのか、瓦礫の処分の受け入れが難しくなる中、反対の声を押し切って受け入れてくださった自治体もありました。私たちは決してこうした方々のご恩を忘れておりませんし、忘れてはいけません。

この紙面をお借り致しまして、物心両面で支えてくださった皆さま方に、改めて深くお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

この間、町は被災者の生活再建と生業の再生を最優先とし、震災復興計画に沿って新しいまちづくりを進めてきました。祖父が半世紀前町長ではあったものの、一商店主として政治にはさほど関心がなかった私ですが、被災者の1人として少しでもまちづくりの役に立てないかとの思いが日に日に募り、2015年11月町議会議員となって、この度2022年4月25日、第9代山元町長に選出して頂くに至りました。改めてこの重責に身の引き締まる思いでございます。

これまで11年積み重ねてきた復興の実績を検証し、町民に寄り添い、町民が希望を持ち、笑顔あふれる、誰一人として取り残さない町を目指して、さらなる20年、30年後を見据えたまちづくりを進めていくと肝に銘じております。津波に流されながら拾った命。果たすべき役割を託されたものと受け止め、職責を遂行してまいる覚悟です。

今思えば東日本大震災が、私のターニングポイントでした。