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趣味は身を助く

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年4月12日

佐藤信逸町長岩手県山田町長​​ 佐藤 信逸​​

私の趣味は将棋である。ちょうど私が小学生、村田英雄の歌う「王将」が流行していた頃が将棋の全盛期であったと思う。当時おもちゃ屋に行くと、駒と紙製の盤とがセットになって売っていたものだった。駒の動かし方はその頃に覚えていたような気がする。その後中学校、高校と進んだが、そこでは将棋をした記憶がなく私の中から将棋は完全になくなっていた。

高校時代、2歳年下の弟が父親から囲碁を教えられているのがいかにも楽しそうであったため、弟から教わり一戦を交えるが全然勝負にならなかった。やがて私は法政大学に進学した。当時、法政大学の囲碁部は活動が盛んで、明治大学との交流戦も行われていた。部員の中には、全国大学囲碁大会で4年間のうちに3度も優勝したという先輩や、北海道大学を卒業後、囲碁をしたくて再入学してきた人もいた。私は、なんとか弟をやっつけてやろうという単純な動機から、彼に内緒で入部した。私は5級から始めたように記憶しているが、やはり皆さん強すぎる。授業が終わると神楽坂にある碁会所に行き、最終電車で帰宅する日が続いた。1年生の夏休みに長野での合宿に参加した頃には、私も初段くらいになっていた。

夏期合宿も終わり実家に帰ってきた。意気揚々とした心持ちの中には、何としても弟をやっつけてやりたいという強い執念があった。高校生の弟は夏休みも終わりまだ学校から帰っていなかったが、はやる気持ちを抑えながらその帰りを待った。そうして着くやいなや宿敵と碁盤を囲んだ。私が囲碁部に入り腕を上げていることを知る由もない弟は「今日は何目差で勝つ」と宣言してきた。曲がりなりにも初段となった私に対し、不遜なる言葉を投げかけてきたその鼻面をひし曲げてやりたいと思う気持ちをおくびにも出さず、私が先で世紀の一戦が始まった。

熱戦は続き、終盤になっても勝負はもつれるだろうと踏んでいた。いよいよ雌雄を決するべく迎えた終局、目数を数えると、なんとあろうことか弟が言っていた通りの結果となっていた。まさしく、試合を作られていたのだ。聞けば敵もさる者、高校の物理の先生が囲碁の大家で、直々に指導を受けていたというから恐れ入った。私は悲嘆に暮れながら、自分は囲碁に向かないのだと言い聞かせ、爾来、囲碁部もやめてしまった。

大学を卒業後、家業の衣料品店を継ぐべく、2年ほど同業者へ丁稚奉公に出された。そこの社長さんが将棋好きで、教えるからと何度も誘われたが、奉公を終えるまでついぞ一度も教わることなく実家に戻ってきた。当時は大型店も近所にはなく、売り上げも伸び忙しくしていた。30歳を過ぎた頃ある酒屋さんに行くと、常連客たちが一杯飲みながら将棋をしていたものだった。日本酒を片手に指す将棋に興味を惹かれ、私も指しているうちに面白くなっていった。39歳の時に出会った銀行の支店長さんが、これまた将棋好きだった。彼はお酒も好きで、3日と空けず私を飲みに誘いに来る。たまに将棋も指すのだが、聞くと地元にも将棋クラブがあり強い人達がいると言う。その中の2段という人と指したが確かに強い。この話を弟に聞かせると、こう言われた。「兄貴、どうせ強くはならないのだから楽しく指すようにしたらいい」。以来、そう自分に言い聞かせながら指し続け、現在地元の将棋愛好会では自称2段である。

東日本大震災によって、825人の尊い命が犠牲となり、7千棟の家屋のうち約3千棟が全壊という甚大な被害を受けた当町。振り返れば多くの困難があったが、静岡県はじめ全国の皆様方の心温まるご支援の下、10年の節目を迎えられることに心から感謝申し上げたい。

復興への道のりは長く険しいものだったが、たまに仲間と集い対局を楽しむことが、心の休息になったと思っている。