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先人からの贈りもの

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年3月30日

青森県平内町長  船橋 茂久青森県平内町長 船橋 茂久​

昭和56年、年末のNHK紅白歌合戦の大トリをつとめ、紙吹雪が舞い日本中が感動に包まれた北島三郎の「風雪ながれ旅」(星野哲郎作詞)は、町の名誉町民、三味線界の第一人者、故初代高橋竹山の半生を題材にしたものと言われています。初代高橋竹山の半生は、言葉には語りつくせぬ貧困、苦難の積み重ねで、その貧困、苦難の先に、津軽三味線の演奏を芸術まで高め、繊細にして華麗な津軽三味線の音色は、国内外の人々に絶賛され、亡くなった今でも憧れ心酔する人が後を絶ちません。

平内町は、昭和30年の旧小湊町、東平内村、西平内村の町村合併前は、たいへん貧しい町村でありました。

町村合併前の旧西平内村は、東北地方特有の「ヤマセ」の影響で昭和6年から凶作が続き、昭和10年には、青森県内で唯一の「特定振興村」に指定され、旧三井財閥の社会貢献事業組織「三井報恩会」の支援を受け、村の人々の貧困を救っていただいております。

また、現在、単一漁協としては、ホタテの水揚げ日本一の平内町でありますが、昭和9年には、北海道の9万tに対し、青森県全体でも130tの水揚げに過ぎませんでした。そのため、多くの東北地方の町村と同じく町民も、集団就職や、出稼ぎにて、町を支えていただきました。東京への上京のたびに、井沢八郎の「あゝ上野駅」の歌を思い出し、その当時の人々の古里への望郷の念を思うと胸にこみ上げるものがあります。

平内町のホタテ産業が劇的な変化を遂げたのは、町の一漁師であった故豊島友太郎氏の私財を投げうった研究と、ホタテの人口産卵に世界で初めて成功した秋田県湯沢市出身の山本護太郎理学博士や漁業関係研究者の尽力によるものです。

令和の新しい時代を迎えても、このように、多くの先人たちの苦労や努力、支援によって現在の平内町の繁栄があります。このことを忘れずに真摯に町民に向き合い、次の世代、未来につながる丁寧な行政を進めていかなければと思っております。

さて、平内町は、青森県のほぼ中央に位置し、陸奥湾に夏泊半島を突き出す、美しい海と山の町です。気象条件としては、6月から7月にかけて、東北地方の太平洋沿岸部に吹く「ヤマセ」の影響で低温が続き、冬場は積雪も多く特別豪雪地帯に指定されるなど、必ずしも気象条件に恵まれているとはいえません。しかし、厳しい自然環境でありますが、美しい景観に恵まれ、浅虫・夏泊県立自然公園と多くの洋ラン、サボテン園(多肉植物)がある夜越山森林公園を抱え、特に夏泊半島には、特別天然記念物「小湊のハクチョウおよびその渡来地」で知られる浅所海岸や、「ツバキ自生北限地帯」としての天然記念物の椿山、裾野に広がる椿山海岸は「日本の渚・百選」に選ばれ、また、「ツバキ自生北限地帯」のすぐ近くには、平成7年、第63回日本プロゴルフ選手権が開催され、令和7年には青森県で開催される国民スポーツ大会のゴルフ会場となる夏泊ゴルフリンクスは、県都青森市からは車で1時間以内ということもあり、県内外の多くのプレーヤーから本場イギリスのリンクスのようにプレーできるとして、たいへん好評を得ております。

平内町は、ホタテ養殖を軸とした水産業が町の基幹産業であり、青森県産のホタテの約半分を水揚げするホタテの町です。以前は、ホタテを食べるところがないという多くの声が寄せられ、そのような状況が続いたため、地元の料理人とともに、新・ご当地グルメに着手し、平成27年3月に「平内ホタテ活御膳」がデビューしました。その味を堪能するために多くの観光客が訪れ、現在、6万3千食に達成しております。また、平成30年5月には、「平内ホタテ」の地域ブランド確立のため、オープンしました「ひらないまるごとグルメ館」のレストラン「ホタテ一番」は、大好評で、町民にとってたいへん元気づけられる施設となっております。是非、ねぶた祭り等で青森にお越しの際には、平内町にお立ち寄りいただき、ご賞味ください。

最後に、同じ東北出身の作家、藤沢周平の作品に触れる機会も多く、藤沢作品の根底にある、人の痛みや心の傷を見つめ、人と人とのつながりを大切にして、町の先人たちに想いをはせ、東北人らしく、地道に、粘り強く、町民の日々の暮らしを守ってまいりたいと思っております。