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歴史と文化、伝統を継承して未来を拓く

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年7月1日

香川県多度津町長 丸尾 幸雄香川県多度津町長 丸尾 幸雄

私は多度津町で生まれ育ち、今も住んでいます。そして、ここで骨を埋めるつもりでいます。私がこよなく愛しているこの町は、古より栄えてきた歴史と文化、伝統に裏付けられています。これらを次世代に継承し、町づくりに生かしていくことが私の務めだと思っています。将来の我が町を背負って立つ子どもたちに、歴史の足跡を学んでもらい、それぞれの時代において多度津が果たしてきた役割を再認識し、この町に生まれてきてよかったという誇りと愛着を持ってもらいたい。そして、一時は離れてもいずれは故郷に帰ってきて次の世代に継承していただきたいと願っています。

ここで、少し多度津の歴史に触れてみたいと思います。

日本書紀の記述に神功皇后の三韓征伐のくだりがあり、多度津が登場してきます。神功皇后が後の応神天皇を身ごもったまま出征し、寄港地になっていた多度津の西白方で宿営しました。帰る途中、近くにある二つの神社に熊手と榜を奉納しました。現在ある熊手八幡宮と榜立八幡宮の祭神は神功皇后と応神天皇です。

善通寺の正式名称は、「屛風ヶ浦五岳山善通寺誕生院」と言い、弘法大師空海の生誕地と言うのが一般的な見解ですが、多度津町海岸寺の辺りも「屛風ヶ浦」と呼ばれ、空海の母である玉依御前の里であり、空海が聖観音菩薩像を刻んで安置したのが海岸寺で、四国八十八か所別格18番札所です。

室町時代の初め、細川頼之四天王の一人である香川氏が現在の桃陵公園の本台山に居城を構え、天霧山に詰め城を築いた時代、多度津は城下町として、政治・文化の中心地として栄えました。

江戸時代に入り、丸亀藩(六万石)二代目藩主京極高豊の子、高道が一万石を与えられて分家し、多度津藩が成立しました。またこの時代、金毘羅参詣の寄港地として多くの人で賑わい、港町として栄えていました。町づくりとしては四代目藩主京極高賢の時代に陣屋を建設しました。この工事の指揮をとった家老の林良斎は名高い陽明学者であり大塩平八郎と深い親交を持っていました。五代目藩主高琢の時に、大規模な多度津湛浦を築造し、多くの大型船が入港できるようになり、瀬戸内海屈指の良港として、後に四国の海の玄関と言われるまでになりました。これにより北前船の基地として栄え、廻船業により富を蓄積した景山甚右衛門を筆頭に「多度津七福神」と呼ばれる豪商が出現し、この人々を中心に多度津の近代化が始まりました。明治22年に讃岐鉄道(株)が開通し、香川県初の私立銀行である多度津銀行が開業され、四国電力の前身である四国水力電気(株)も設立しました。当時、多度津郵便局は一等郵便局として四国全域を管轄し、多度津測候所は香川県初の気象観測所として設立されました。また、開祖宗道臣先生が1947年に人づくりの行として創始した世界で一つしかない少林寺拳法の総本山、総本部があります。

このかけがえのない歴史、伝統、文化を生かした魅力ある町づくりと人づくりを行うことで移住、定住、交流人口を増やしていこうと人口減少対策や地方創生に取り組んでいます。古民家再生プロジェクトでは、多度津七福神のひとりで、唯一現存している合田邸を交流拠点とし、賑わいを創出するため当時の銭湯や高級料亭はリノベーションされ、カフェやゲストハウスに生まれ変わっています。そして四国の鉄道発祥の地として栄えたJR多度津駅周辺の活性化にも取り組んでいます。役場庁舎の移転、建て替えを含め、民間の活力や資金力を生かして、賑わいを創出していこうと考えています。また、多度津町の情報発信を行うタウンプロモーション事業を町職員と町民との官民連携のもとで「まねきねこ課」も誕生し、創意工夫しながら新たな挑戦を続けています。

本年5月に元号が「令和」に変わりました。新たな時代の魁となれるよう多度津町の明るい未来に向けて、これからも粉骨砕身、努力してまいる所存です。