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ふる里の来し方と明日を見つめて

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年7月1日

茨城県河内町長 雜賀 正光茨城県河内町長 雜賀 正光

穂平線(すいへいせん)の見える町

その昔、利根川の河川敷だった河内町を含むこの地域は、無数の氾濫に見舞われる水害常習地帯であった。しかし、この氾濫が肥沃で平坦な、稲作には格好の大地をもたらす結果となった。人々は堤防を築き、干拓をするなどして水を征し、田畑を広げ耕してきた。

町内には、いくつかの沼地と水田の中に建っている小さな神社―水神社―がある。沼地は度重なる洪水の名残りであり、水神社はかつての水との闘いを物語っている。悠々と流れる利根川の堤防に立ち、それらを見ていると、この地域の歴史の一端を垣間見る思いがする。

江戸時代、利根川沿岸には多くの河岸があり、河岸は船の往来とともに多くの旅人や積み荷で賑わった。この頃すでに「江戸の台所」と評判になっていた当地域で収穫された米は、この河岸から江戸に運ばれた。

また、江戸時代を代表する俳人小林一茶は、船を使って頻繁に当町を訪れていた。一茶は田川地区の長百姓であり俳人でもあった岩橋一白と親交があり、岩橋家を何度も訪れていた。

もたいなや 昼寝して聞 田うえ唄

この句は、一茶が河内の地で詠んだものである。

当地域は、明治の時代になっても洪水に見舞われはしたが、利根川の護岸工事が進むに従い、豊かな穀倉地帯へと生まれ変わっていった。戦後は土地改良事業を積極的に取り入れ基盤整備を進めた結果、我が国の高度経済成長期とも重なって河内町は関東でも有数の早場米産地として力づよく発展していった。農家は米さえ作っていれば、心配することは何もなかった。

国の食糧政策の転換などで米作りの“旨み”が薄れ、また、後継者不足が懸念される今日でも、当町の面積の60%は農地であり、農地の実に90%以上が水田である。そして秋ともなれば、黄金に色づいた稲穂が水平線の彼方まで波を打つ、そんな町が私のふる里である。

春はメダカの泳ぐ小川でザリガニを捕り、夏はマコモの匂う沼で水遊びに興じる。秋は赤トンボの群れなす青空を眺め、冬は霜柱を踏みしめて野面を駆け回る。一言でいうならそんな腕白を繰り返しながら私は成長していった。中学生になり柔道を始めた私は、高校、大学と柔道に打ち込んだ。今年、茨城県で国体が開催されるが、選手として国体に出場したことのある私は、国体と聞くと青畳と汗の匂いと共に熱い血潮がよみがえってくる。

そして平成25年、57歳の時に町を良くしたい、ふる里のために汗を流したいと、あの頃の血潮にも負けない熱い思いでもって町長に立候補し、町のために働くことになった。

“河内の心”を大切に

全国の自治体は、行先の不透明な社会問題に直面している。少子化による人口減少と高齢化社会への対応である。また、自治体は各々の個性を打ち出し、知恵を出し合って政策を展開していくことが求められる時代である。

バブル経済真っただ中の昭和63年から平成元年にかけて、地域振興のために各自治体に一律に1億円を交付した「ふるさと創生事業」というのがあった。当時の竹下首相は、無駄遣いではないかという質問に「これによってその地域の知恵と力が分かる」と答えたという逸話が残っている。財政的に余裕のあった時代でも地域づくりには知恵と工夫が求められていたのである。

これからは、知恵を出し合うことは言うに及ばず、前例にとらわれない柔軟な発想で自治体の持っている「強み」を追い風に、「弱み」を克服しながら果敢に挑戦する心構えで地域づくりに取り組んでいかなければ自治体は生き残れないだろう。

河内町は東京の中心地から直線で50km、筑波研究学園都市へは30km、成田国際空港へは20kmの茨城県の最南端に位置している。風にそよぐ青田と悠久の流れをとどめる利根川は、今も私たちの心に豊かな恵みを与えてくれる。夏には突き抜ける青空の中に筑波山を、冬ともなれば夕焼けの彼方に富士山を望む田園風景は、今も変わらぬ本町の姿である。

これからも先人たちが積み重ねてきた歴史、文化といった遺産や守ってきた“河内の心”を大切にして、次の世代に誇りをもってバトンを渡すことのできる「ふる里」を創っていきたい。