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「ふる里上牧」をつくる。それはこの町の存続につながること

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年8月27日

奈良県町村会長 上牧町長 今中 富夫奈良県町村会長・上牧町長 今中 富夫

上牧町「震度4」。6月18日朝、下から突き上げるような大きな揺れを感じた。「地震や!」私は一気に外に飛び出した。地震を知らせるJアラートが流れ、部屋に戻りテレビをつけると、大阪府北部を震源とする最大震度「6弱」とテロップが流れた。8時20分役場、防災担当者らを集め、「町内の危険箇所を重点的に、全域をすぐに見回るよう」指示を出し、その報告を待った。幸い町内に大きな被害はなかったのでひとまず安堵したが、あとから大阪で亡くなられた方がいたとのことを聞き胸が痛くなった。

上牧町は、奈良県の北西部に位置する人口およそ22,600人の町。古代、馬が放牧されていた牧場であったことが、「上牧」の呼び名の起こりといわれている。大阪に近いという好条件から、ベッドタウンとして発展した町である。

昭和25年、まだ上牧村であったこの町に私は生まれた。見渡せばぶどう畑が広がり、駆け回った山などは、今は住宅地や商業地となり、大型商業施設や飲食店、温泉、病院などが建ち、暮らしやすい住宅地の町へと変遷した。小学生の頃、通学途中にある川は、大雨が降るとあっという間に水かさが増し危険な状態になる。その時、先生が対岸から両手を大きく挙げてバツ印を出す。「大雨で川が溢れかけているから危ないので帰りなさい」という合図である。今では考えられないことだが、今となっては懐かしく、子どもたちを前に昔話をする機会があるたびに話している。

今は人口約22,600人のこの町も、私が役場に奉職した昭和47年当時は約8,700人。町広報紙の表紙に「伸びゆく上牧 町制施行近し!」という見出しが躍っていたのを記憶している。都市開発の時代といわれた1970年代、健民運動場、小・中学校や保育所など、自然環境を守りつつ、更なる上牧の発展のための諸事業が次々と落成し、槌音が町中に響き、住宅開発も急ピッチで進んだ。昭和47年12月1日、町制がスタート。明治22年町村制実施により、上牧村が発足して80余年、刻まれた歴史の重みが新上牧町に受け継がれた。それにより昭和50年の国勢調査による人口は、11,489人、5年前の調査と比べ156.3%増加し、人口増加率全国一を記録した。その当時、まさか今のような人口減少に悩む時代が来るとは夢にも思わなかった。

そして世の中の移り変わりと同時に、より利便性が求められる時代になった。「上牧町には駅がない!」という話をよく耳にする。私はそこで「上牧町には線路はないが、駅はある」と言う。いや実際には線路もその駅もない。しかし、本町に隣接する市や町には王寺駅や畠田駅、また近鉄五位堂駅などがあり、これらの駅を利用して大阪圏内に移動するにも決して不便でないからだ。6.14平方キロメートルという小さい町域なればこそ便利な面もある。

私も気がつくと67歳。若い頃、朝な夕なに農作業に勤しむ親父を見て、自分はやりたくないという思いがあったが、気が付くと、いつの間にか、親父と同じことをしている。不思議に思う。今では朝5時に起き、一時間半程度、健康づくりも含め田や畑仕事に汗を流す毎日。土手に腰を掛け一服。眼前には子どもの頃に走り回っていた山も、今は住宅や店が建ち、賑わっている。20年後にはこの町はどうなっているのかとふと思う時がある・・・。

「ふる里」自分が生まれ育って、帰ることによって安らぐ地。一旦外に出ても、いずれは帰りたくなるような、心が安らぐ場所を守っていくのが私たちに課せられた使命ではないか。またそういう意識が高まれば、町は消滅しないと思っている。「ふる里は上牧」と思う人を一人でも多く増やしていく。そして「ふる里は上牧」と思ってもらえる魅力ある町をつくりあげていくことが今の私に、また次代に課せられた使命の一つだと思っている。

来年、上牧村が発足して130年を迎える。先人がこの地にかけた思いを踏襲しつつ、ほほ笑みあふれる和のまちづくり、ふるさとの魅力づくりにさらに邁進したい。