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福島県檜枝岐村/尾瀬とともに歩む持続可能な村づくりを目指して

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月20日

檜枝岐村全景

▲檜枝岐村全景


福島県檜枝岐村

3184号(2021年12月20日)檜枝岐村長 星 明彦


檜枝岐村の概要

檜枝岐村は、福島県の西南端に位置し東西24㎞南北34・5㎞に及び、栃木県・群馬県・新潟県に隣接しています。面積は390・46㎢で約98%を山林が占めており、うち94%が国有林です。役場所在地の標高は939m、東北最高峰の燧ケ岳や会津駒ケ岳(ともに日本百名山)など2、000m級の山々に囲まれた山村です。自然環境は厳しく、年間の平均気温は8℃、平均降水量は1、500㎜を超え、最深積雪量は例年2m前後、多い年は3mを超えることもある特別豪雪地帯です。また交通の便も悪く、県内の主要都市である会津若松市まで約100㎞、最寄り駅の会津高原尾瀬口駅は約50㎞離れており、村内を通る国道352号は新潟県側が冬期間通行止めとなります。標高が高いため昔から米が実らず、かつては林業が主産業でしたが、昭和40年代後半から尾瀬国立公園を中心とした観光業が村の主産業となっています。

尾瀬国立公園「大江湿原」

▲尾瀬国立公園「大江湿原」

 

東北地方で一番小さい村

村の住民基本台帳人口は令和3年10月末現在527人(世帯数196・高齢化率36・43%)となっており、全国7地方のもっとも人口の少ない村(北海道(音威子府村)・東北・関東(山梨県丹波山村)・近畿(和歌山県北山村)・中国(岡山県新庄村)・四国(高知県大川村)・九州(熊本県五木村))で構成する「小さな村g7サミット」の東北代表となっています。2017年には第2回サミットが当村で開催されました。人口密度の低さは1㎢あたり約1・3人と日本一ですが、集落のほとんどは檜枝岐川沿いの3㎞に密集しています。

 

伝統芸能「檜枝岐歌舞伎」

村に伝わる伝統芸能に檜枝岐歌舞伎があります。その歴史は古く、江戸時代から270年以上、一度も途絶えることなく継承されています。福島県会津地方は昔から農村歌舞伎が盛んな場所で、かつては各村々に舞台や一座があり、明治・大正と盛んに農民による歌舞伎が演じられていました。昭和になり各地の歌舞伎は徐々に衰退していきましたが、檜枝岐歌舞伎は愛宕神祭礼・鎮守神祭礼に演じる奉納歌舞伎として現在も伝承されています。

歌舞伎を演じる「檜枝岐の舞台」は国の重要有形民俗文化財に、檜枝岐歌舞伎は県の重要無形民俗文化財に指定されています。継承団体の「千葉之家花駒座」は大正時代からこの座名で活動しており、現在の座長は11代目で35名の座員が活動しています。年3回の上演日には、たくさんの観光客が村を訪れ歌舞伎を観劇しています。

​​檜枝岐歌舞伎

​​▲檜枝岐歌舞伎

 

村の歴史と生活文化

村には7ヶ所の遺跡埋蔵地が確認されており、どれも縄文時代後期のもので、古くから人々が居住していたと推測されます。姓は星が半数近くを占め、平野が約3割、橘が約1割となっているため、普段から村民同士は下の名前で呼び合っています。そのため新生児が誕生しても、同じ名前を命名することはほとんどありません。星姓(藤原氏)、橘姓(楠氏)については言い伝えや古文書などにより記録が残りますが、平野姓については記録がなく、家紋(揚羽蝶)や言葉などにより平家の落人説が残っています。

江戸時代までは山の木を自由に使うことができたため、黒檜や姫子松を山から切り出し、木羽板と呼ばれる屋根材に加工し、会津や上州に売って米や油、塩などを得ていました。山に良質な黒檜が豊富にあったことが「檜枝岐村」の名前の由来とされています。明治以降は地租改正により豊富な森林は国有化され、生きる糧であった山の資源を失い、村は貧しくなったことが予想されます。それ以降も主産業は林業でしたが、国有林の払い下げを受けながらヘラ・杓子・曲げわなどの木工品を製造し生活を支えました。明治22年の町村制施行により村は近隣の伊南村・大川村と3ヶ村組合村となりましたが、大正6年に檜枝岐村として独立しました。以後、一度も合併をすることもなく、平成29年に村政独立百周年を迎えることができました。

村には江戸期から「出作り」と呼ばれる生活文化がありました。山林が多く居住地近くに平地が少ないため、居住地から約5~8㎞離れた川沿いの平地に「出作り小屋」と呼ばれる小屋を建て、蕎麦・粟・稗などの雑穀を育てながら、夏場は家族みんなで村を離れ暮らしていました。そのため子ども達は遠く離れた学校まで歩いて通っていました。スクールバスなどない時代に子ども達は大変な苦労をしたそうです。

このような生活が昭和40年代まで続きましたが、奥只見ダムの完成に伴い、村財政が一気に好転しました。しかし、耕作地が減少したことで他の市町村へ転出する者もおり、出作り小屋で生活する者は減少していきました。

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小さな村の観光

尾瀬への入山者の増加や財政の好転により、村の主産業が林業から観光業に転じました。昭和46年に村が主導し村内に民宿を増やし、同年には初の観光イベントとして、会津駒ケ岳山開きを開催しました。昭和50年には下水道を全戸整備し、温泉も湧出し全戸に給湯しました。温泉は現在でも全戸に給湯しています。このような行政の取組により林業から観光業への転換を図り、昭和50年代初めには旅館7軒、民宿32軒が営業していました。当時の世帯数が180世帯ですので約2割以上の世帯が宿泊業を営むこととなりました。こうした村民の努力により村は次第に豊かになり、村民の所得も増加していきました。以来半世紀にわたり檜枝岐村は観光業が主産業となっています。

村の観光は長く尾瀬国立公園(平成19年に日光国立公園から分離独立)によって支えられていました。尾瀬への入山者数は平成8年に64万人とピークを迎えましたが、尾瀬の自然を守るため過剰な入山者を規制する動きが始まり、その後は右肩下がりで入山者が減少していきました。その間、東日本大震災に起因する東京電力福島第一原子力発電所事故の風評被害や新型コロナウイルス感染症などの影響により、令和2年度の入山者は11万人まで減少しました。村内の旅館民宿への宿泊者もピーク時の65、000泊から13、000泊まで減少しています。

このように尾瀬への訪問者は減少を続けておりますが、平成29年にオープンした道の駅「尾瀬檜枝岐」などを目的とした村内への旅行者は、コロナ禍にもかかわらず横ばいの数値が続いています。キャンプや車中泊など宿泊形態の多様化により、施設への宿泊者は減少しておりますが、この小さな村の観光は熱心な「檜枝岐ファン」によって長年支えられていると考えられます。

その「檜枝岐ファン」の多くはリピーターで、宿泊者の約7割を占めます。インバウンドの必要性を感じつつも、交通の便も悪い山奥まで繰り返し訪問してくれている日本人のお客様を一番大切にしていたことが、半世紀にわたり檜枝岐村が観光を生業として継続できた理由であると考えられます。

​​尾瀬檜枝岐温泉「燧の湯」

▲尾瀬檜枝岐温泉「燧の湯」

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ふくしま子ども自然環境学習推進事業

福島県では、県内の小中学校を対象とした尾瀬国立公園での環境学習を推進しています。檜枝岐村観光課では、この事業の事務局として福島県と協力しながら平成23年度の事業開始以来、これまでのべ239校8、570名の児童生徒が参加し、尾瀬の自然や檜枝岐の生活文化に触れています。村ではこの事業の体験メニューとして、地元に伝わる農村歌舞伎(檜枝岐歌舞伎)の「化粧体験」や、自然と触れ合う「岩魚のつかみどり」などを、隣接する南会津町では「藍染め体験」などを実施しています。現在はコロナ禍などにより参加校が減少しておりますが、尾瀬の素晴らしい自然や檜枝岐村の生活文化を子ども達に伝えるため今後も事業の継続を望んでいます。

歌舞伎化粧体験

▲歌舞伎化粧体験

 

県境をまたいだ連携の推進~群馬県片品村との取組~

尾瀬で繋がる群馬県片品村とは現在も車道がありません。尾瀬の自然を守るため、昭和40年代に道路開発が中止されました。そのため片品村へは栃木県日光市を経由し車で片道約4時間を要します。唯一2つの村を結んでいるのは、江戸時代に会津と上州の交易路であった片品村大清水から尾瀬沼を経由し、檜枝岐村七入に至る旧街道「会津沼田街道」です。今でもこの街道の一部には木道が敷かれ、尾瀬国立公園内の歩道として活用されています。隣接する自治体では日本で一番往来が不便なのではないでしょうか。

そのような状況にある中、両村を結ぶ唯一の道として「会津沼田街道」にスポットをあて、尾瀬国立公園の新たな魅力として発信し、互いの連携を強化しています。尾瀬は群馬・福島・新潟・栃木の4県にまたがっているため情報発信も各県バラバラになりがちな状況です。観光客を奪い合うのではなく県域を越えた連携を強化しながら尾瀬全体の魅力を伝えていくことが必要です。今後も広域的な連携を模索しながらさまざまな事業に取り組みたいと思います。

​​​​尾瀬沼と燧ケ岳

▲尾瀬沼と燧ケ岳

 

 

着実に進む人口減少とその対策~持続可能な村を目指して~

村では今年度から本格的な人口対策に乗り出しています。前述したように村の人口は現在527人です。昭和36年の899人をピークに緩やかに減少を続けています。面積の98%が山林で平地が少ないため、昔から土地を譲らない風習があり不動産業者もなく移住・定住が難しい地域です。

令和2年度の人口動向によると、21~49歳の約6割が村出身者となっています。村には高校がなく、隣接する南会津町の一番近い高校でも村から車で40分程度を要し、豪雪地帯のため冬場の通学も困難なことから中学を卒業すると子ども達は村を離れます。一度は村を離れても約6割の村民がUターンして村を支えています。

村では昭和40年代から尾瀬で山小屋の経営を始め、村内宿泊者が増加傾向にあった平成初期からは、岩魚の養魚場や舞茸・自然水・ソバの加工品の生産施設を村営で開始するなど、村民の雇用場所の確保に努めてまいりました。先人達のこうした努力によって、村の観光産業は支えられ、急激な人口減少もなく高齢化率も30%台に抑えられています。

しかしながら、東日本大震災に起因する東京電力福島第一原子力発電所事故の風評被害や新型コロナウイルス感染症の影響により、村の観光産業も大きな打撃を受け、村営事業所の継続も難しい状況となり、人口を維持するための対策を検討する必要性が高まりました。Uターン者の受入れとともに今後はIターンによる移住・定住者受入れに必要な、移住者・村・村民にとって三方よしの対策を強化し、100年後も檜枝岐村であり続けるよう持続可能な村づくりを目指します。

​​​​岩魚の養魚場

▲岩魚の養魚場