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宮城県女川町/あたらしいスタートが世界一生まれる町へ

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年8月2日

JR女川駅上空から女川湾を望む

▲JR女川駅上空から女川湾を望む。
駅舎から海まで直線に延びるプロムナードは、通称「レンガみち」である。


宮城県女川町

3168号(2021年8月2日)女川町長 須田 善明


はじめに

あの東日本大震災から10年。ここまで全国各地の皆様から町の再建に対する物心共の支援を賜ってきたところであり、紙面をお借りしまして、あらためて心から感謝と御礼を申し上げます。

女川町の紹介

女川町は、宮城県の東、牡鹿半島基部に位置し、東部は太平洋に面し、西部、南部、北部の三方を北上山地から伸びる山々に囲まれ、山林が84%と大部分を占めています。また、三陸特有のリアス式海岸からなる女川湾の沖合には、江島列島や出島など大小の島々が散在しており、奥州三大霊場の一つである『霊島 金華山』は、パワースポットとしても人気があり、女川港から定期船が出ています。『女川』の由来は、前九年の役の頃、豪族 安倍貞任が源氏方の軍と戦った際に、一族の婦女子を安全地帯である『安野平』に避難させたことから、この地から流れ出す渓流を『女川』と呼び、のちに地名になったと伝えられています。

北上山地と太平洋が交わる風光明媚なリアス式海岸は天然の良港を形成し、カキやホタテ・ホヤ・ギンザケなどの養殖業が盛んで、世界三大漁場の一つである金華山沖漁場が近いことから、魚市場には年間を通じて暖流・寒流の豊富な魚種が数多く水揚げされているほか、サンマの水揚げは、女川魚市場の水揚魚種の中では最大の数量・金額となっており、全国有数のサンマ水揚港となっています。

 

東日本大震災

平成23年3月11日14時46分、突き上げるような縦揺れと大きな横揺れが発生し、女川町では震度6弱、地震による津波は最大津波高14・8m、最大浸水高18・5m、最大遡上高34・7mを観測。最大津波高と遡上高は県内最大を記録しました。この巨大津波により、当時の人口10、014人のうち、827人(8・3%)もの尊い人命が奪われました。さらに町内の住家4、400棟のうち、7割の3、100棟が流失(全壊、大規模半壊)。離島、半島部に点在する漁業集落でも住家のほか、カキ処理場、ギンザケ、ホヤなどの養殖施設、漁船等が流失し、壊滅的な被害を受けました。

 

 

震災からの復興

発災から間もない4月、当時の安住宣孝町長は復興計画の策定に向け復興推進室と計画策定委員会を設置、震災から6か月後の9月に「女川町復興計画」が町議会の議決を得ました。

復興計画は「とりもどそう笑顔あふれる女川町」を復興の基本目標に掲げ、「防災」「産業」「住環境」「保健・医療・福祉」「人材育成」の5本柱を復興方針に復興期間は平成23年度から30年度までの8年間としました。

女川町の復興まちづくりの大きな特徴の一つは、『まちと海の眺望を遮る巨大防潮堤を造らなかったこと』にあります。湾口を囲む国道398号を海側の側面に防潮堤機能を持たせた、いわゆる「兼用堤」を整備し、東日本大震災の津波で浸水した区域は、一定の条件をクリアした建物でなければ居住できない「災害危険区域」に指定しました。また、ひな壇構造にすることにより、JR女川駅前商業エリアや新しい高台住宅地の眺望軸からは「海」を望むことができます。

駅前から女川港に向かって形成された にぎわい拠点

▲駅前から女川港に向かって形成されたにぎわい拠点は、都市景観大賞や土木学会最優秀賞などの最高賞を受賞した。

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復興まちづくりにおける民間との関わり

震災直後に行政(町職員)が被災者の捜索活動や避難所運営を行う中、民間側の産業界は『女川のまちは俺たちが守る』を旗印に、水産業や商工業などの業種の垣根を越えた民間の組織「女川町復興連絡協議会(FRK)」を立ち上げました。FRKの町商工会会長は、平成23年4月の設立総会時に「町の復興には10年も20年もかかるので、これらの復興の中心となるのは、若者世代。町の復興は責任世代となる30代、40代の若者に託す。還暦以上は口を出さず、側面支援に徹する(弾除けになる)」とのメッセージを伝えました。この時、町商工会会長は還暦を迎えていました。

その後、FRKは民間独自の復興計画を策定して平成24年1月に町と議会に提出しました。この民間独自の復興計画は、①数十年に一度発生する津波に対しても浸水しないまち、②複数の避難道路の整備、③大人も子どもものびのび歩き、活動できるまちなどで、そのほとんどが女川町復興計画に盛り込まれ、復興まちづくり事業に大きな影響力を発揮していただきました。産業界を中心とし、町民と行政が一体的に復興まちづくりをけん引する「公民連携」はこうした流れの中で生まれていきました。

 

 

人口減少への取組

現在、日本はもとより、世界各国が人口減少社会に突入しています。国内では地方都市、特に被災地では、著しい少子高齢化や商店街の衰退等の課題に直面しています。女川町も被災前1万人だった人口は大きく減少し、現在は6、200人あまりです。

震災前にも、女川町には「担い手不足」や「シャッター通り」などの課題が山積していました。そのような状況下で仮に震災前と全く同じ“女川町”を作ってしまっては、地域の課題を解決していない“女川町”をもう一度作ってしまうことになります。そのため、人口が減少していく中にあっても持続可能なまちづくりが必要になっていました。

行政だけでは、これからの「公共」は担えず、行政と民間が同じビジョンに向け「チーム女川」として、それぞれの果たすべき得意な役割を担うことが重要でした。そうしたことから、女川町では震災後、町民と行政、いわゆる公民が共に連携を図りながら、持続可能な地域経営の実現を目指し、さまざまな課題解決に向け、膝をつき合わせながら議論し課題を克服してきました。

 

 

「活動人口」の創出

女川町では「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。START! ONAGAWA」をスローガンに掲げ、震災からの復旧にとどまらず、震災前から抱えてきた町の課題を解決し、震災による人口流出や少子高齢化が進む中、復興後の持続可能なまちづくりに向けて、「活動人口」の創出にも積極的に取り組んでいます。ここでいう「活動人口」とは、女川という町を活用してさまざまな活動を行う人々を指します。女川という町を器として捉え、町を使って民間の自由な発想とアイデアを活かした新しい取組を行う人を増やし、にぎわいと地域経済活力を維持するという考えです。

活動人口創出促進事業

UIターンによる将来的な定住人口の増加やにぎわいと活力をもたらす活動人口の増加を目的に、女川町にはNPO法人が行う「お試し移住プログラム」があります。このプログラムは短期間(5~30日間)で、実際に住み、町の人や雰囲気に触れながら女川のライフスタイルを体感するプログラムとなっており、移住意思は問わず、少しでも地方で暮らすこと・働くこと・関わることに関心のある方なら誰でも参加することができます。実際に移住した方で、町内企業や町職員として女川町で働いている方もいます。また、当NPO法人では、女川町や地方で起業するために必要な学びを提供する「創業本気プログラム」を行っており、震災前の女川町にはなかったフレーバー日本茶を提供するお店や、ギター工房、手作り石鹸、バラエティに富んだ飲食店等のオシャレで魅力的な店舗も駅前商業エリアやシーパルピア女川に出店しています。

歩行者専用道路のレンガみち

▲歩行者専用道路のレンガみちでは、音楽イベントやファッションショー、レンガみちをバージンロードに見立てた結婚式も挙行された。

「駅前シンボル空間」と「道の駅おながわ」

現在のJR女川駅を降りると、来訪者を歓迎するかのように駅前広場が広がり、その先には海へと一直線に向かうレンガみちが続きます。駅を降りると目の前に交通ロータリーがあるという光景はほかの地域でよく見られますが、JR女川駅前広場は、あえて交通広場を駅舎側面に配置し、象徴的な駅舎正面を歩行者中心の空間としてレンガみちの起点を演出しています。幅員15mのレンガみちでは駅から海に向かって順に、民間のまちづくり会社が建設したテナント型商業施設「シーパルピア女川」、同じく観光物産施設「地元市場ハマテラス」、住民との話し合いにより導き出されたコンセプト“まちの居間”である「女川町まちなか交流館」、町の観光拠点となる「女川町たびの情報館ぷらっと」がまちの骨格を形成し、この既存の4つの施設をエリアとして道の駅の指定を受けました。同エリアは、公民連携による民間活力を最大限に活かした管理運営により、道の駅おながわを中心とした利便性向上、にぎわい創出、地域経済活性化を図るため、観光情報や道路状況のほか、地場産品の魅力や震災復興の歩みを発信する交流拠点になっています。このほかにも水産業体験施設「あがいんステーション」や背後地には換地手法等によって整備した自立再建型の商業業務地が展開しています。また、復興のシンボル空間でもあるJR女川駅からレンガみちの眺望軸は、初日の出方向に向けて設計されており、元旦から多くの方々でにぎわっています。

「シーパルピア女川」

▲ギター工房や多彩な小売店、女川の味を堪能できる飲食店が集まる。まち歩きを楽しみながら“おながわ”を満喫できる「シーパルピア女川」。

「地元市 場ハマテラス」

▲店頭には女川で水揚げされた鮮魚や水産加工品等の地場産品が並ぶ「地元市場ハマテラス」。

元日の波静かな女川湾と初日の出。

▲元日の波静かな女川湾と初日の出。海を遮る防潮堤を造らずに海への眺望軸を確保した。

震災遺構「旧女川交番」

駅前のシンボル空間を女川湾に向かって抜けると、そこには震災遺構の旧女川交番があります。東日本大震災の津波の引き波により鉄筋コンクリート造の基礎部分の杭が抜かれ横倒しになったと考えられ、建物には漂流物の跡や残骸もそのままの状態で残されています。

鉄筋コンクリートの建物が津波で転倒したのは日本では初めての事例で、世界的に見ても希少であり、東日本大震災の記憶と教訓、そして絶望から立ち上がった人々の復興の歩みを後世へと引き継ぐとともに、未来に生きる人々が同じ悲しみや苦しみを味わうことの無いように願い、この旧女川交番が震災遺構として保存されることになりました。

「旧女川交番」

▲東日本大震災の津波の引き波により横倒しになった震災遺構「旧女川交番」。

終わりに

現在、世界的な新型コロナウイルス感染症の影響で、全世界で大変という一言では表せないほど過酷な状況が続いています。行動の自粛が求められ、経済活動に甚大な影響が出ており、女川町の産業界においても大変厳しい状況下に置かれています。

当面の間、社会活動が制約される日々が続きますが、それゆえにこそ、これまでの10年間の経験と積み重ねてきたものが大切になります。困難な状況にありながらも希望を描きながら、ただ立ち止まり嵐が過ぎ去るのを待つばかりではなく、今できることを、町民一丸となり今次の状況にチャレンジしていきます。

感染症対策に官民挙げて意を用いながら、皆様のお越しをお待ちしております。皆様におかれても、日頃からの対策をお取りいただきつつ、どうぞお気軽に女川をお訪ねください!

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