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沖縄県読谷村/受け継がれていく読谷人(ゆんたんざんちゅ)の誇り~歴史と伝統文化に根差したむらづくり~

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年4月20日
座喜味城跡の写真

座喜味城跡


沖縄県読谷村

2917号(2015年4月20日)  全国町村会 田中 隆三


むらの概要と観光資源

読谷村は、沖縄本島中部の西側に位置し、東は海抜200m読谷山岳を頂点に緑の山並みが連なり、 西は海抜130m座喜味城跡のある丘を頂点にカルスト台地が広がる段丘をもって東シナ海岸へ続いています。南は比謝川を境として、 北は景勝の地「残波岬」に囲まれた美しい自然と豊かな伝統文化に育まれた村です。 

村域は、北は恩納村、東は沖縄市、南は嘉手納町に隣接し、沖縄本島の幹線道路である国道58号が村内を縦断しています。 那覇市から北へ約30㎞に位置し、面積は35.28k㎡、県下で18番目の大きさです。 

平成26年には人口が4万人を超えて、日本一人口の多い村となりました。  

読谷村といえば、紅イモを生かしたスイーツなどの特産品、観光地としては、 東シナ海を一望できる景勝地「残波岬」や平成12年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された沖縄県最古のアーチ形石造門や琉球石灰岩の切石積みが神々しい「座喜味城跡」などが有名です。 スポーツ及び宿泊施設も充実し、プロ野球やJリーグ、パラリンピックなど様々なスポーツのキャンプ地としても多くの来訪者を迎え入れています。 

読谷村は多くの「人財」を輩出してきました。琉球政府公選行政主席・本土復帰後の初代沖縄県知事の屋良朝苗氏をはじめ、読谷山花織の與那嶺貞氏、紅型の玉那覇有公氏、 沖縄の伝統工芸であるやちむんの金城次郎氏は卓越した技術力と高い人間性が評価され人間国宝に選ばれています。現在、読谷村にゆかりのある人間国宝は3名に上ります。

むらづくりゆんたんざ鳳(おおとり)

村の形は、東シナ海に突き出た半島状の形状をなしており、残波岬をくちばしとして今にも大海原に飛び立たんとする鳳(おおとり)の姿に似ています。 

~読谷岳から多幸山をへて座喜味城にいたる山並みは、飛翔の風をはらむ羽。鳳はサンゴの花蔓を引き、海の花畑でニライカナイから来訪する嘉利吉を迎える。 この嘉利吉を、座喜味グシクを頂きとする黄金環で受け止める。座喜味グスクは、風を宿す腰当、大路のカジマヤーでは、人・物・文化が結ばれる。そして西に賑わいをおき、 東を粛として山裾を養い長田川の恵みを活かし、過ぎたるを流す~ 

村では、こうした風水の理念に基づいて21世紀に向け羽ばたく鳳(おおとり)をイメージした村づくりを進めています。 

具体的には、村づくりにあたり「農業地区」・「リゾート地区」・「住宅地区」に分けて整備計画を進めてきました。特に農業は、 村にとって重要な基幹産業という先人からの教えを頑なに守り、鳳のくちばしと見立てた残波岬一体を農業地区に指定しました。 

これにより、沖縄本島中南部の西海岸の殆どがリゾートホテルや商業施設の埋め立て等によって変貌している中、読谷村の海岸線は、 天然の珊瑚礁池が14㎞も連なる貴重な自然海岸として残されています。 

週末には、村内外から家族連れや若者など多くの人々で残波ビーチは賑わいます。 

ゆんたんざ鳳の画像

ゆんたんざ鳳

ひと 読谷まつり 受け継がれていく伝統芸能

文化による村づくりは村の基本方針の一つです。今年で41回目を数える「読谷まつり」は、住民参加型のイベントとして地域づくりの基礎となっています。 小学生からお年寄りまで村民総出、各集落の伝統芸能を余すことなく披露し、文化による村づくりの精神を結集する場として毎年秋に開催しています。 

石嶺村長曰く、「各集落には伝統文化が根付いています。また村民は皆一生懸命取り組み、我も我もと楽しむ気質。読谷には芸能の素地があるんです。」なるほど、 2日間で約8千人にも上る出演関係者はコミュニティ(集落)や各種団体、学校等から参加する仕組み。出演者である村民が毎年変わるので、来場者は増える一方、 昨年は40周年を記念するまつりとして3日間開催され、約11万2千人もの来場者が訪れる大規模なイベントとして賑わいをみせています。 

まつりの1日目は、赤犬子琉球古典音楽大演奏会。2日目には、 初の進貢使として大交易時代の幕を開けた時代の先駆者「泰期(たいき)」を乗せた「進貢船(しんこうせん)」の入場が行われます。トラックの荷台に進貢船の大型模型をしつらえ、 中国から帰還する設定で泰期が船首に立ち、あたかも洋上を行くがごとく、まつり会場に入って来ます。  

それを村をあげて歓待するというストーリー。会場の大舞台では、各集落にそれぞれ伝わっている伝統芸能の大演奏会が賑々しく執り行われます。空手の演舞やエイサー、 獅子舞、棒術などの伝統芸能のほか、現代のダンスや音楽など新旧の芸能が披露される、まさに村の一大文化芸術祭。まつりのクライマックスには、 進貢船が再び中国へ出帆していくという演出で会場を練り歩き、来場者のテンションは最高潮に達します。 

読谷まつりステージ(舞台)の写真

読谷まつりステージ(舞台)

読谷まつりの写真

読谷まつり

読谷まつりの魅力

田島副村長に読谷まつりの魅力について聞いてみました。 

「村内には24のコミュニティ(集落)があります。それぞれの地域で伝統文化を継承していましたが、 まつりのステージ(舞台)で住民がこぞって伝統芸能を華々しく披露することによって、今までは集落単位でしか行われてこなかった伝統芸能が村の規模まで引き上げられ発展し、 新たな文化創造の場となっています。それに、途絶えていた芸能が復活したり、地域のエネルギーにも繋がっているんです。また、読谷まつりで披露する伝統芸能は各集落で受け継がれています。 教わる子ども達が真剣なら教える大人にも力が入ります。そういう伝統も昔から今も連綿と続いているので、読谷の子ども達には目上の人を敬う心も自然と身についていくのです。」

田島副村長の写真

田島副村長

村はどのようにコミュニティ(集落)と向き合っているか石嶺村長に聞いてみました。  

「読谷村の主役は、やはりその地域に住んでいる人達と伝統あるコミュニティ(集落)です。その中で行政として何が出来るか。お祭りに例えれば、 ほど良い距離感を保つことによって、集落が自立の心意気を持ち主役としてステージ(舞台)に上がり、お祭りを大いに盛り上げています。そして、集落に戻っても様々な課題等に対して自らで考え、 自らで実行することを見出し、それが村の賑やかさにつながっていく。読谷村のコミュニティ(集落)にはそういうポテンシャルは元々あるし、 そういったポテンシャルを引き出すことも行政の役割だと思います。」 

読谷まつりは、実行委員会が中心となって開催に向け準備を進めていく、行政はあくまで裏方(サポート役)に徹します。まつり当日、村長は開会宣言の後、 役場職員と共に自らも会場警備の1人として、村民を見守ることもあるといいます。まさに村を象徴するエピソードです。

石嶺村長の写真

石嶺村長

手しごと 伝統工芸の継承 -ヤチムンの里-

受け継がれているのは芸能だけではありません。伝統工芸も継承されています。 人里離れた緑豊かな自然の中に赤い瓦屋根の登り窯など風情ある景色が美しい「読谷山窯(ゆんたんざがま)」は、国道58号線から少し離れた場所に昭和55年開窯しました。 全国の器好きが魅せられ足繁く通うこの地域は「ヤチムン(焼き物)の里」と呼ばれています。 

ヤチムンの里 登り窯の写真

ヤチムンの里 登り窯

沖縄の方言で焼き物を意味する「ヤチムン」は、ぽってりと厚く丸みを帯びていて手に馴染みやすい形、 沖縄の強い色彩に負けない濃密さをもってダイナミックに描かれた絵付けなどから、その器に触れた人々は大らかさ、素朴さ、温かみ、癒し、などの魅力の虜になっていきます。 

当時、沖縄の焼き物の中心であった那覇市壺屋は市街地化が進み、登り窯の使用が出来なくなっていました。一方、読谷村には今から約300年前とされている古窯跡があり、 ヤチムンのルーツと言われる「喜名焼(きなやき)」が栄えたという歴史がありました。後に沖縄で初の人間国宝となった金城次郎氏(国・重要無形文化財「琉球陶器」保持者)、 が壺屋からこの地に移転し、窯を構えていたのも時宜を得たものでした。  

村では、失いかけていた沖縄伝統工芸文化継承のため返還された村有地を活用することにしました。住民や役場職員が土を運び皆で登り窯を造ることによって、 元々嘉手納弾薬庫地区内だった土地は、沖縄の焼き物文化を担うにふさわしい「ヤチムンの里」へと生まれ変わったのです。 

現在では、村内には60の窯元が、日々伝統の技を今に伝えており、特に「ヤチムンの里」には年間8万人とも9万人とも言われる観光客が訪れています。 沖縄の伝統を守りつつ、今の暮らしに馴染む器の魅力に人々は惹きつけられているのです。 

ヤチムンの里(窯元16カ所)は、登り窯に魅せられた若者達の心も掴んでいます。 この里のシンボルでもある大きな登り窯は「共同」という沖縄独自の意識が機能している創作現場でもあります。里の工房では、大らかで力強い沖縄のヤチムンを生み出すため、 全国から陶工を目指して日々作陶に励んでいる50人の若者の姿を見ることが出来ます。また、修行を終えた陶工が、新たに若者達を呼び込むという好循環も生まれています。 

このように地域の「生業(なりわい)」を継承し、地域への愛着と誇りを醸成することによって、 生まれ育った地域で生き抜きたいという若者や村外からの移住希望者等多くの人々を惹きつけているのです。また、村では読谷村陶芸研修所を開設し、 ヤチムンを通して郷土学習・地域福祉・伝統工芸等の発展・後継者の育成など生涯学習の場として活用し、文化村づくりの更なる発展を目指しています。 

ヤチムンの里 作陶に励む若者の写真

ヤチムンの里 作陶に励む若者

文化による村づくり

なぜ人々は読谷村に惹き付けられるのでしょうか。村が元気な(人口が多い)理由を石嶺村長に聞いてみました。

「それは『むら』にこだわった地域づくりをブレずに行ってきたからだと思います。今あるモノを一生懸命耕して、それに誇りを持つということ。 

例えば、戦後、途絶えていた伝統工芸(ハード)や伝統芸能(ソフト)など地域の宝(文化)を掘り起こしたり、復興させたり。自分達の文化に誇りを持とう、 ウチナーグチ(琉球方言)もどんどん使おう、三線も学校教育の課外活動に取り入れようと、文化による村づくりを推進してきました。以前、若者の間には村より町、 町より市の方が良いというような時期もありましたけど、今では、読谷(よみたん)は『むら』だけどかっこいいねというのが全ての村民の共通認識になってきている気がします。」  

残波岬の写真

残波岬

知産地笑

「知産地笑」は石嶺村長のモットーです。行政だけではなく地域、企業、放送局、大学、各種団体と一緒に知恵を出し合い、 もの(人材、商品、課題解決方法等)を『産』み出すことで『地』元が盛り上がり、『笑』顔あふれる地域を目指して村づくりに取り組もうというものです。 

大切なのは住んでいる人たちが自分の地域にいかに誇りを持っているかということ。自信や誇りを持っているからこそ、村の魅力に惹き付けられた人々を温かく受け入れ、 一緒になって元気な村をつくっていくことが出来るのです。 

役場の4階にある展望塔から辺りを見渡す。広大な先進農業集団地区が目に入る。6次産業化の拠点となる「地6振興センター(仮称)」も今年中には完成予定とのこと。 偶然、役場を訪れていた地元のおじぃとおばぁの会話が耳に届いてきました、「ここが日本一の村だよ。」地域に誇りを持っているんですね。  

村長さんたちの「想い」は、村民にとって自信と勇気、夢と誇りであり日々の生活の中に脈々として活き、様々な村づくりの実践の中で発揮されているのではないだろうか。 そしてその「想い」は、「おじぃおばぁ」から、「わらびんちゃー(息子や娘)」に、そして「うまがんちゃー(孫達)」へと紡ぎながら受け継がれていく。

石嶺村長と子どもたちの写真

石嶺村長と子どもたち