ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村の取組 > 新潟県津南町/アートでふるさと再発見~「大地の芸術祭」越後妻有アートトリエンナーレ~

新潟県津南町/アートでふるさと再発見~「大地の芸術祭」越後妻有アートトリエンナーレ~

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年10月5日
新潟県津南町の写真

新潟県津南町

2695号(2009年10月5日)  町長 小林 三喜男


河岸段丘のまち 「新潟県津南町」の風景

津南町(つなんまち)は新潟県南部、長野県下水内郡栄村(さかえむら)に接し、千曲川が信濃川と名前を変える県境の町である。

町の北部を大河信濃川が南西から北東に流れており、信濃川左岸は傾斜が大きく、泥岩、砂岩、礫岩を主とする関田山脈が信濃川と平行に走り、急傾斜が多く耕地面積は少ない。信濃川右岸地域は、溶岩台地の苗場山の裾が広大な緩傾斜面をつくって信濃川に達し、斜面の下部には9段の雄大な河岸段丘が形成されている。

ひまわり広場の様子の写真
「ひまわり広場」には1ヶ月で約7万人が訪れる。

このように信濃川とその支流によって階段状につくられた特異な地形「河岸段丘」は、平坦な面と切り立った崖とで形成され、その段丘面の広がりと9段もの段数は日本最大規模といわれている。

また、この右岸の大地は灌漑用の池沼が多数点在し、津南町の主要な農耕地となっており、水田を中心に広大な農地が広がりを見せている。津南町の農業は「魚沼コシヒカリ」に代表される稲作、ニンジン・アスパラガス・花卉・葉たばこ等の畑作のほか酪農とキノコ等の特養林産物の産地として知られている。

また、この段丘上で繰り広げられる夏の風物詩「ひまわり広場」は1ヶ月間で約7万人が訪れ、「ひまわりの町つなん」でも知られるようになってきた。

近隣市町村のようす

津南町は平成の市町村合併には加わらなかったが、隣接する十日町市(とおかまちし)は旧十日町市、中里村(なかさとむら)、旧川西町(かわにしまち)、旧松之山町(まつのやままち)、旧松代町(まつだいまち)の5市町村が2005年4月1日に合併し現在に至っている。

十日町市は、'55年代の高度経済成長期から旧十日町市を中心に「きもの産業」が大きく成長をはじめ、これを主産業にして栄えてきたが、'75年代に入り生活様式の変化の波に洗われ、出荷額や従業員数が減少しつつ現在に到る。また、合併した旧中里村、旧川西町、旧松代町、旧松之山町及び津南町は稲作を主体とする農業を主産業とする農山村であるが、かつて旧十日町市の周辺町村は「十日町の着物」関連の仕事に深く関わっており、地域の人口集積地でもある旧十日町市は周辺の地域にも様々な経済的影響を与えてきたところである。

近年においては、新規学卒者の圏外流出や定着率の減少、'70年からの減反政策等の影響もあり、農業離れや後継者不足が深刻な状況を呼び起こしている。さらに、旧十日町市の織物産業の不振もあって雇用の場の確保が重要な課題となっている。

日本有数の豪雪地帯

津南町は深田久弥氏の「日本百名山」の一つ「苗場山」を最高峰(標高:2,145.3m)とし、信濃川の最低地点(標高:177m)まで標高差約2,000mに広がる面積170.28平方kmの農業を基幹産業にした町である。総面積の65%を山林・原野が占め、耕作地は20%(水田:約2,000ha、畑:約1,300ha)となっている。

積雪量が通常でも3メートルに達する日本有数の豪雪地帯の様子の写真
積雪量が、通常でも3メートルに達する日本有数の豪雪地帯

当地域は日本海から直線距離でわずか30㎞に位置し、冬の大陸からたくさんの水蒸気を含んだ北西の季節風が山(関田山脈)にぶつかり、急激に上昇することによって冷やされ、多くの雪を降らせる。この地域の積雪量は、通常でも3mにも達し、日本有数の豪雪地帯である。隣接する長野県栄村においては、1945年に7.85mの積雪を記録している。

アートによる町づくり

新潟県は、広域市町村圏(構成市町村)と住民が一体となり、ソフト及びハード事業を組み合わせ、個性的なプロジェクトを展開することを支援する「ニューにいがた里創プラン」事業(平成6年)を提唱し、独自の施策を全国に先駆けてスタートした。

十日町広域圏は、当該地域の中核的役割をなす十日町市の織物産業不振、その他の地域でも農業離れや後継者不足、少子高齢化や各自治体財政の逼迫等、先行き不透明な状況の中で、当該事業のソフト事業とハード事業を同時に取り込むことによって、活路を見出そうとした。

そのため、十日町広域圏の構成市町村(十日町市、中里村、川西町、松代町、松之山町、津南町)は「ニューにいがた里創プラン」事業の指定を受け、"越後妻有(えちごつまり)アートネックレス整備構想"の中で圏域に現代アートを取り入れることにより「交流人口の増加」、「情報の発信」、「地域の活性化」を実現しようと考えた。

この広域圏で取り組み始めた事業が現代アートの祭典「大地の芸術祭」(越後妻有アートトリエンナーレ)である。

「大地の芸術祭」(越後妻有アートトリエンナーレ)の経緯

「大地の芸術祭」は、新潟県から支援をいただき、2000年から3年ごとに開催してきた現代アート(野外展示・屋内展示)の祭典である。

2000年の第1回展は、旧十日町市、旧川西町、旧中里村、旧松代町、旧松之山町(以上の5市町村は2005年4月1日に合併:現十日町市)と津南町で実行委員会を設立し、実施してきた。構想では、各自治体に核となる施設を造り(ハード事業)、アート作品(ハード事業・ソフト事業)を導入することによって圏域内の市町村をアートで繋ぎ、地域の活性化を図るというものである。

大地の芸術祭 アートの写真
「大地の芸術祭」では、創造する喜びと交流の楽しみが生まれた

当初はアートを地域振興の手法とする斬新さへの注目とその効果への疑問が交錯する中で開催され、県・市町村との間でも議論が紛糾した。当然、現代アートを地域振興の手法とすることには市町村間でも温度差があり、積極的に推進する住民や自治体等と否定的なところとが様々な場面で衝突した。それに加え、地元マスコミも様々な論調で紙上を賑わし、「アート」の是非をめぐり大きな論議が巻き起こったのである。

そんな紆余曲折を経ながらも、2000年の7月から9月までの50日間、第1回の芸術祭は開催され、斬新さへの期待と未知への不安が交錯する第一歩に踏み込むこととなった。

その後、2003年には第2回展が開催され、途中(2005年)新十日町市が合併により誕生し、2006年に第3回展、本年(2009年)に第4回展が開催され現在に至っている。

アートで『気づき』

第1回展では圏域の自治体間でも温度差があり、住民の協力もなかなか得ることができなかった。しかし、回を重ねるごとに住民も「大地の芸術祭」で汗を流す楽しさや様々な世代間での交流に興味や楽しみを見出した。集落や個人で土地を提供し、作家や「こへび隊」(学生等のボランティアグループ)等と作品制作を一緒に行うことで、「創造する喜び」や交流の楽しみが生まれ、地域の自然や文化・歴史を見直すきっかけを創り出した。

お金さえあれば何でも買える世の中で、作家も住民も素敵な時間と空間、心豊かな笑顔と心地よい汗に出会った。お金では買えない大事な「モノ」に気づいたのかも知れない。

風景写真
津南町は、食糧基地としての役割を果たしつつ地域の魅力を発信していく

また、作家にとってはその土地々々での作品制作を地域の老若男女と語り合い、交流することによって、生きる知恵を見出し、農業の大変さと苦しさを知り、楽しさと自然の美しさを知ることができた。

第1回目の祭典から約10年という歳月が流れ、第4回目の芸術祭は過去の反省点も踏まえ、シャトルバスやレンタサイクル等の交通システムの確立等もある程度充実してきたところである。何よりも、地域の方が地域の自然や文化に自信と誇りを持ちながら活き活きと芸術祭に参加していることが、この10年間の大きな変化であり財産である。

妻有地域は面積で約760平方kmという広大なエリアに38の国と地域のアーティストによる作品約370作品が分散している。この広大なエリアに存在する様々な財産・魅力、そしてアート作品をいかに地域の産業に結びつけるかが今後重要となる。

今後のまちづくりの視点

津南町は農業立町を基本理念とし、1973年から国営苗場山麓総合農地開発事業の導入によって、青年農業者を中心に広大な農地を利用した大規模経営が図られてきた。2001年(平成13年)までに畑地造成・区画整理960ha、水田の区画整理878haが完了した。

当地域は日本有数の豪雪地帯であるが、食糧基地としての役割を果たしつつ、地域の魅力を情報発信していくことが今後さらに重要となってくる。農業後継者不足や農業離れ等の問題、少子高齢化の問題等が山積している中で、地域の魅力と自然資源や文化遺産を後世に伝えてゆくことが必要である。

津南町は「大地の芸術祭」(越後妻有アートトリエンナーレ)での交流や作品制作の中で培った「地域の誇り」や「地域の宝物」を農業といかにリンクさせ融合させるか、いかに農業に付加価値を付けるかが今後の大きな課題となるであろう。