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熊本県山都町/賑わいあふれる山の都を創る ~潤い、文楽、そよ風でつづる新しい町~

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年10月27日
「山門町の宝」清和文楽人形芝居の写真

「山門町の宝」清和文楽人形芝居


熊本県山都町

2657号(2008年10月27日)  全国町村会広報部 黒田 治臣


「平成の合併」によって、全国の市町村は1,000余りに減少した。このうち、合併後もなお「町」や「村」を名乗る自治体は、およそ160。それらの町村では、現在、どんなまちづくりが行われているのか。依然として厳しい財政、新町村としての一体感の醸成など、いずれも、課題は多いはずである。

そうした町の1つ、熊本県山都町は、地域に受け継がれた歴史と風土を手がかりに、新しいまちづくりに取り組んでいる。合併を経て、賑わいあふれる「山の都」を目指す町の今を取材した。

青い山に囲まれて

放浪の俳人種田山頭火が、「分け入っても分け入っても青い山」という句を詠んだのは大正15年の初夏。肥後熊本から日向延岡へと延びる日向往還をたどり、古い宿場町馬見原(旧蘇陽町)へ向かう道中でのことだった。九州山地と阿蘇南外輪山に挟まれたこの圏域は、どこまで行っても青い山ばかり。九州山地の脊梁が間近に迫る風光は、山頭火が歩いた80年前と、あまり変わっていない。

その日向往還が東西に貫く山あいにあるのが、熊本県山都町である。旧矢部町、旧清和村、旧蘇陽町の3町村が、平成17年2月に合併。総面積544.83平方kmという、県内屈指の広さをもつ町となった。それでも人口は1万8千人余り。第1次産業従事者が30%を超える、典型的な農山村である。

悩み抜いた合併

旧矢部町、旧清和村、旧蘇陽町が任意の合併協議会を立ち上げたのは、平成15年のはじめ。「平成の合併」の動きが、全国で本格化しようとしている頃だった。熊本県も、平成12年3月には「熊本県市町村合併推進要綱」を策定。県内市町村の合併パターンを示すなど、すでに「市町村合併を積極的に推進」する方向へと舵を切っていた。

こうした県の指導や、地方交付税の減少などによる財政の逼迫は、やがて、矢部、清和、蘇陽の3町村を合併へと押し流していく。

旧矢部町と旧清和村は上益城郡。一方、旧蘇陽町は阿蘇郡。県が示したこの3町村の組み合わせについては、地域内で住民投票を求める動きもみられるなど、さまざまな声が上がった。これに対して、職員はチームをつくり、集落ごとに説明会を開催。住民をねばり強く説得して、平成16年8月に合併協定書の調印にこぎつけることができた。

ところが、この合併は、一部で歪みを生むことになった。

まず、郡域を超えた組み合わせとなったことで、自治体の区域と農協、畜協、森林組合などの管轄区域にズレが生じた。

さらに、500を超える広大な面積となったことで、行政と住民の距離は確実に遠くなる。行財政の効率化は差し迫った課題でもあり、住民の間でサービス低下への不安は高まっているという。

山都町の西田毅総務課長は、「昭和の合併」の時と今回の合併を比較して、「6町村が一緒になって旧矢部町ができた時は、地域のまとまりもあったし、人口増加や鉄道の開通など将来への希望もあった。しかし今回は、かつての状況とはまったく違っていた。」と振り返る。

3町村が一緒になっても、将来への展望が見えにくい中での合併。旧矢部町、旧清和村、旧蘇陽町とも、悩み抜いた上での決断だったといえる。

毎年9月の第1土曜日に行われる八朔祭の写真

毎年9月の第1土曜日に行われる八朔祭

特産のブルーベリーの写真

特産のブルーベリー

ゆず加工品の写真

ゆず加工品

山都ものがたりの夜明け

合併後、町の一体感をどのように築き上げていくか―。

新生山都町にとって、これが最大の課題となった。さまざまな事情があったとはいえ、今は町の将来を見定めて、合併したメリットを追求するべきである。そのためには、住民の一体感が欠かせない。そう考えた甲斐利幸町長が着目したのが、「阿蘇家の歴史」だった。 

「阿蘇家」とは、古くから、肥後国の一宮 「阿蘇神社」の大宮司職(だいぐうじしょく)にある家。中世のある期間、阿蘇家は、旧矢部町の中心地である浜町を拠点に一大勢力を築いていた。旧清和村、旧蘇陽町の地域にも、阿蘇神社の末社が点在しており、旧3町村の住民にとって、「阿蘇家の歴史」は、共通して育んできた地域の歴史といえる。

町は、平成19年度に「山都ものがたりの夜明け~検証阿蘇家入領800年~」と銘打った一連の事業を展開することにした。ひとつは、山都町と中世阿蘇家をめぐる歴史講座やシンポジウムを開催。さらに、テレビ東京の人気番組『開運!なんでも鑑定団』を誘致して、阿蘇家をはじめとする地域の歴史遺産を掘り起こした。

そして、記念事業のメインとなったのが、清和文楽人形浄瑠璃による『阿蘇の鼎灯(ていとう)』であった。清和文楽は、旧清和村ていとうに150年以上前から伝わる伝統芸能。明治時代に一時廃れた時期もあったが、昭和に入って復活し、現在は地元農業者を中心とした保存会が、この貴重な文化を守っている。

この企画を発案した町商工観光課の本田潤一さんは、「旧矢部町に拠点を置いていた阿蘇家の話を、阿蘇郡に属していた旧蘇陽町とともに、旧清和村の文楽で演じる。これによって、3町村の共通意識をつくりたかった」と、事業のねらいを話す。清和文楽で「阿蘇家の歴史」にまつわる舞台を作り、住民の一体感を醸成しようと考えたのである。

ただ、記念公演までに与えられた準備期間は1年足らず。この舞台作りには、さまざまな困難が待ち受けていた。

『阿蘇の鼎灯』は、戦国時代末期、阿蘇家の幼い当主が、薩摩の島津氏に追い詰められて、隠れ里へ落ち延びるという没落の物語。いわば敗者の物語であるため、残された史料は極めて少ない。脚本を依頼された元山都町立図書館長の前田和興さんは、自らのツテをたどりながら古い史料を探り出す作業から始めなければならなかった。

「幕が下りたときに拍手が来なかったら、こんな惨めなことはない。その思いと責任。それから合併記念事業であったということが重かった。」当時の心境をそう語る前田さんの苦労は、並大抵ではなかっただろう。その苦労と熱意が形となった作品は、登場する人形10体以上、上演時間2時間を超える大作となった。

しかし、これだけの舞台は、保存会のメンバー16人ではまかない切れない。そこで、本田さんらは、前田さんとともに町全域に声をかけ、手助けしてくれる人を募集。旧矢部町の文化サークルの仲間を中心とした「清和文楽盛り上げ隊」が結成されることになる。8人からなる「清和文楽盛り上げ隊」は、人形遣いはもとより、衣装の縫製、人形の手足の制作まで、舞台作りを全面的にバックアップ。本番1ヶ月前から始まった保存会との練習にも、熱意をもって取り組んだ。

こうして、『阿蘇の鼎灯』は、県立劇場に2,500人を超える観客を集め、堂々たる舞台となった。保存会と「清和文楽盛り上げ隊」が共同で演じた2時間の公演に、満員の客席から、万雷の拍手が送られた。

山都町は、最高のスタートを切った。

『阿蘇の鼎灯』の舞台風景の写真

『阿蘇の鼎灯』の舞台風景

「清和村の宝」を「山都町の宝」に

旧清和村が、文楽を使った村おこしに取り組み始めたのは、細川護煕元首相が熊本県知事だった時代。「くまもと日本一づくり運動」で個性ある地域づくりを提唱したのと時を同じくして、清和文楽が県の無形文化財に指定されたことがきっかけだった。

村は勢いを得て、文楽による地域振興に着手。平成4年には「清和文楽館」を完成させ、年間160回を超える公演を行うまでになる。「多くても年に50回くらいの公演があればいいと思っていたのが、1年目で160回以上の公演。農作業中心の毎日から文楽館中心の毎日へと、生活が一変してしまった」。保存会の倉岡輝司会長は、当時の状況をしみじみと話す。

廃れ行く文化だと思っていた文楽を観るために、村外から大勢の人がバスを連ねてやって来た。村民も、初めはみな驚きの目でその様子を見ていた。

「昔は、熊本市に出向いても、村から来たなんて恥ずかしくて言えなかったですよ。」清和文楽の里協会理事長の福田幸一さんは、旧清和村の若い役場職員だった頃を思い出して苦笑する。「それが、文楽で村おこしをするようになってから、清和村の名が知られるようになった。文楽は私たちに誇りを与えてくれた。」地域で細々と受け継がれてきた文楽は、こうして、村の宝になった。

しかし、「清和文楽館」での公演開始から16年が経過して、いくつかの課題も出ている。とりわけ、最盛期には2万人を超えていた年間の観客動員数は、平成11年度以降伸び悩み、ここ数年は、減少に歯止めがかからない。清和文楽館館長の財渡辺久さんは、現在の状況を「新作もなく、マンネリ化が出てきている。新しいことを考えていかなければならない時期」と分析する。とはいえ、保存会のメンバーは農作業をやりながらの公演。高齢化も進んでおり、今の状況を抜け出すのは容易ではない。

それでも、合併記念事業『阿蘇の鼎灯』に取り組む過程で、「清和文楽盛り上げ隊」の協力など外からの風も入り、雰囲気は変わりつつあるようだ。

筆者が文楽館へインタビューに訪れた日、保存会のメンバーは、古典『絵本太閤記』の練習に精を出していた。長い間取り組むことができなかった古典への挑戦。清和文楽を「山都町の宝」にしようと奔走する本田さんも、この新しい動きに目を細める。「お金を取って観ていただく以上、技を磨いていくことも必要。町内にすそ野を広げていくためにも、継続して取り組んでいかなければ。」と、次なる仕掛けを模索している。一方、文楽による地域振興に長年携わってきた福田さんも、「「清和の宝」だったものを「山都町の宝」と言われると、少し寂しい気もする。しかし、町は一生懸命バックアップしてくれている。「山都町の宝」となるよう、私たちも頑張っていきたい。」と応じる。

合併から3年半余り。旧町村の垣根を越えて、山都町はひとつの方向へ向かって走り始めている。

清和文楽館の写真1
清和文楽館の写真2
清和文楽館の写真3
清和文楽館の写真4

平成4年に完成した「清和文楽館」

山の都を創る

『阿蘇の鼎灯』の成功によって高まった町の一体感。山都町では、これを活かした新しい取り組みが、すでに始まっている。

ひとつは、景観づくり条例による、町内の美しい景観の保全。今年7月、「通潤用水と白糸台地の棚田景観」が、国の「重要文化的景観」に指定された。「通潤用水と白糸台地の棚田景観」は、清和文楽と同じく、山都の人々が長い間大切にしてきた文化遺産。それを含めた町の美しい景観を守り、ふるさとの環境を気高いものにしようとするものである。

また、町内産の有機農産物のブランド化に向けた取り組みも期待が大きい。もともと、山都町は無農薬米や野菜、果樹などの有機栽培が盛んな地域。これら多彩な農産物を、金・銀・銅の3段階に認証してシールを貼付し、付加価値をつけて町外の消費者に届ける。環境保全型農業を推進するとともに、安全な無農薬野菜として県内外で町の知名度を高めるねらいがある。

「山都ものがたりの夜明け」と題した一連の合併記念事業、そしてこれに続く上記の取り組みなど、山都町のまちづくりには共通の哲学を感じ取ることができる。山都町が、新しいまちづくりを進めるに当たって中心に据えたその哲学とは、“いのちのつながり”である。

合併して新しい町になっても、地域が受け継いできた歴史と風土が変わるわけではない。矢部町、清和村、蘇陽町が共通してもっていた歴史と風土を見直すことから、まちづくりを始める。先人が造り出してきた歴史を振り返り、自らの風土に誇りをもって、賑わいの絶えない山の都を創り上げていく。山都町のまちづくりには、そうした一本の太い柱を見る思いがする。

先祖代々、人々の営みが続けられてきた所にこそ、文化がある。その文化を大切に、「山の都」の名にふさわしい新たな歴史を創っていこうとする精神が、山都町には生きている。

そうした、町村らしい豊かなふるさとづくりを、これからも続けてほしいと願う。

朝日に輝く通潤橋の写真

朝日に輝く通潤橋

国の重要文化景観に指定された白糸台地の棚田の写真

国の重要文化景観に指定された白糸台地の棚田