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群馬県板倉町/水を活かしたまちづくり~重要文化的景観選定に向けて~

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年8月28日
高瀬舟

群馬県板倉町

2571号(2006年8月28日号)
町長 針ヶ谷照夫


県と一緒の取り組み 板倉ニュータウン

地図を見てもらうとよく分かりますが、群馬県は丁度鶴が舞っている姿に似ているところから「鶴舞う形の群馬県」と形容されています。そして板倉町はその口ばしの部分を占める県の最東端の町であり、栃木、埼玉、茨城県に接する県境の町でもあります。

町の面積は約42平方キロメートル、人口約1万6,000人程の純農村地域とも言うべき町です。

板倉町は平成に入って群馬県と一諸に大学の誘置、駅の設置、そして住宅団地事業といった板倉ニュータウン、学園都市構想に取り組んでまいりました。

駅からニュータウンを望む
駅からニュータウンを望む

なお、この事業を行うにあたっては、治水関係も万全なものにしなければならず、結局総面積218ヘクタール、大学、駅、住宅、治水の4つの事業を同時に行うという、小さな町としては極めて規模の大きい事業となりました。

幸い多くの人々の多大な御協力もあり、平成9年には東洋大学板倉キャンパス、東武日光線板倉新駅が誕生、治水関係も今年排水機場が完成、ほぼ万全な状態となりました。

かつて館林城主であった榊原康政、徳川綱吉の時代に、利根・渡良瀬川堤防築堤がなされたと記されています。しかし自然の猛威はその堤防をも何度も欠壊させました。特に明治期には公害の原点ともいわれた足尾鉱毒事件が発生、精練の際に発生する亜硫酸ガスによって足尾の山から木や草が消えるに及んで、毎年のように洪水がおき、大きな打撃を受けました。

一方明治政府は、洪水を防ぐために渡良瀬遊水地計画をつくりましたが、そのため私の町に隣接をしていた谷中村が廃村に追いこまれ、多くの村民が他に移住せざるをえなかったという辛い歴史もあります。なお、今年は谷中村廃村100年の年でもあります。

大きな変革のなかで新たなまちづくり

しかしこの間国も地方も大きな変化の波が押し寄せ、2000年4月から地方分権一括法が施行され、自己決定、自己責任によるそれぞれの自治体の特性を活かした個性あるまちづくりが求められるようになりました。

同時に三位一体の改革をはじめ、地方交付税等の大幅な減額もあり、ここ数年地方財政が極端に厳しさを増す一方、それを見透したかのように、平成の大合併が促進されるという、まさに地方自治体の根幹を揺るがすような大きな変化の波が押し寄せてまいりました。

一方国においては、市場原理、効率第一といった方向が強調された結果、所得較差の拡大、自殺者や犯罪の増加、また人口が都市に集中し、これまで日本の発展に大きな役割を果たしてきた農山村が衰退。そして日本が世界に誇ってきた景観が失われ、かつての地域社会に存在したみんなで支え合うといった連帯意識や責任感の欠如、伝統的な文化の喪失によって心の支えが失われるという、新たな現象が噴出してきたような気がいたします。

我が国がこのまま進んでいった場合、はたして本当に未来が展望できるのか、国民は幸せを享受できるのか心配です。何かかんじんな大切なものを見失っていないか、そんな気がいたします。

古くは論語に「温故知新」という言葉があります。また郷土の先人、田中正造翁は、足尾鉱毒問題で悩まれたときは必ず現地に足を運ぶ、いわゆる原点をしっかり認識するということを大事な教訓とされていました。

私の町では21世紀を迎えるにあたり、学園都市構想を進めるかたわら、失われつつある郷土の文化、芸能、民俗行事等を、先ずは徹底的に収録しようと、民間の人達による「ビデオで板倉を遺す会」が結成され、収録に努力をいたしました。同時に講座「板倉学」の学習会を通して町の歴史や、先人達がどんな思いで郷土をつくりあげてきたのかを町民と共に学んでまいりました。

水との闘いの歴史

板倉町の南境には我が国最大の流域面積を誇る利根川が流れ、北境には鉱毒問題で有名な渡良瀬川が流れこんでいます。このため昔から水の恩恵を受けてきた反面、夏の増水期にはしばしば洪水氾濫に苦しめられてきた洪水常習地帯で、水場とも言われてきました。

よし焼
よし焼

かつて館林城主であった榊原康政、徳川綱吉の時代に、利根・渡良瀬川堤防築堤がなされたと記されています。しかし自然の猛威はその堤防をも何度も欠壊させました。特に明治期には公害の原点ともいわれた足尾鉱毒事件が発生、精練の際に発生する亜硫酸ガスによって足尾の山から木や草が消えるに及んで、毎年のように洪水がおき、大きな打撃を受けました。

一方明治政府は、洪水を防ぐために渡良瀬遊水地計画をつくりましたが、そのため私の町に隣接をしていた谷中村が廃村に追いこまれ、多くの村民が他に移住せざるをえなかったという辛い歴史もあります。なお、今年は谷中村廃村100年の年でもあります。

水場の知恵、水場の文化

先人達は、長い水との闘いの歴史のなかで、この地方独特の水場の知恵、水場の文化を育くんでまいりました。その一つに「水塚」と言われる防災施設があります。水害時に人や家財道具・食糧・家畜などを守るための施設で、屋敷の一隅に土盛りをし、そこに水防建築を建てるものです。一般的には1階部分が備蓄米、味そ醤油樽等の貯蔵場所に、2階部分が水害時の居住場所となるものです。

また母屋や納屋等の軒先には「揚舟」というものが吊されています。これは水害が予想されるときには降ろして使用するもので、水害時に人や家畜、食糧や水、そして家財道具などを運んだ舟です。その他に川田と言われている堀り上げ田や、潜り橋、サイフォン(暗渠)などがあります。

揚舟ツアー
揚舟ツアー

またかつて板倉町の郷土芸能、水害圏の信仰、民俗行事などを調査された専門家の人達は、その種類の多さ、保存状態が、何れも関東の中でも特殊な地位を占め、まさに民俗芸能の宝庫であると驚嘆したものです。これ等は何れも水に苦しんできた歴史の重み、そして水害を防ぐという課題に取り組んできた地域住民の運命共同体意識の強さ、また苦しいが故にみんなでうたい踊るという形で、芸能等が育てられてきたものと思います。

さらにこの地は、群馬の水郷と言われるくらい標高差の少い低湿地域で、いったん水が入るとなかなか水が出ていかないということから、内水排除にも腐心し、先人達は血のにじむような努力の結果、昭和2年、群馬県で最初の機械による排水機場を完成させました。おかげで広大な湿地が美田に生まれ変り、群馬のウクライナとも称される地域となりました。

重要文化的景観への取り組み

板倉町は昭和22年9月、関東地方を襲ったカスリン台風で、渡良瀬遊水地の堤防が欠壊、大きな被害を受けましたが、その後60年近く水害に出会うこともなく、先人達が大切にしてきた水塚や揚舟、その他の水文化が次第に失われつつあります。

渡良瀬遊水池
渡良瀬遊水池

たしかに今は以前に比べ、便利で豊かな社会が実現したことも事実であります。しかし前に触れたように今の我が国のさまざまな状況を考えると、もう一度原点を見つめなおす時期にきているような気がいたします。

欧米の主要国では、我が国と比べて遥かに厳格で詳細な景観法を定め、街並みや農村景観づくりを行なっていると聞いております。またそのことが国家や地方の品格、質の高さとして国民の誇りにもなっているようです。

その点残念ながら我が国では土地や建物等、個人の財産権の主張が強く、景観等共通の財産という認識はまだまだという感じがいたします。しかし近年、国においても市民の間からも、少しずつではありますが、景観を重要視する気運が高まりつつあるような気がいたします。

板倉町は平成15年6月、文化庁の「農林水産業に関連する文化的景観」に選定されました。

農の景観とは、農林水産業などの生活の営みのなかでつくられた、歴史や文化に関連した特色ある景観を選定したもので、当町の場合は、町のほぼ中央を流れる谷田川の柳山群落、川田、サイフォン、排水機場、潜り橋といった低湿地特有の景観や施設、そして町の東側に位置する広大な渡良瀬遊水地、特に1,500ヘクタールにも及ぶよし焼き等が複合景観として認められたものです。

また平成16年からは、県と町による共同プロジェクトによって、各専門のスタッフ、また文化庁や民間の団体等の支援もあって、川舟の製作やよしず製作、板倉町の漁法、川田の製作、綿栽培と綿織物、水郷の伝統食などに取り組んでまいりました。

一方平成16年、文化財保護法の改正により「文化的景観」が文化財の一つとして位置づけられました。

文化的景観とは、人間の手によって守られてきた景観のことで、生業の中から生れた景観は、人間と自然の織りなすその地域独特の景観をつくり出しており、その中でも特に重要なものを「重要文化的景観」としたものですが、その第1号としては、平成18年1月に、滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」が選定されました。

水塚
水塚

板倉町は昨年10月、町制施行50年を迎えるにあたり、あらためて、「これからは50年、100年先を見据え、町の最大の特性でもある水を活かしたまちづくりを行い、最終的には重要文化的景観を目指す」ことを決意いたしました。

当面は3ケ年で「板倉の水郷景観や保存計画」策定に向けて、調査・策定事業を進めている段階ですが、まだまだ町民の理解や、町民を巻きこんでの取り組み、景観計画調査や条例の制定等困難なことも多く、道遠しという状況なのかも知れません。

しかし現在の板倉町は、先人達が生活や生業を連綿と続けてきた結果のものであり、この地方特有の景観や文化を後世に伝えていくことも現在の我々に課せられた大切な責務であると考えます。

私達がふだん何気なく見ている景観、それは言葉では言い表すことのできないような大きな安らぎを与えてくれると同時に、もし一度失ったら、いくら後悔しても取り戻すことのできない貴重な財産なのかも知れません。

そうした観点から、町民と力を合わせて努力をしていきたいと考えています。