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三重県紀和町/日本の原風景 東紀州の象徴「丸山千枚田」 ~鉱山の町から農耕文化・景観保全の町~

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年4月18日
丸山千枚田田植え祭りの写真

丸山千枚田田植え祭り

丸山千枚田条例が掲げられている写真

丸山千枚田条例が掲げられている


三重県紀和町

2517号(2005年4月18日)  産業振興課振興係 濱中 拓也


古道は丸山千枚田へ

東紀州と言われる三重県南部に位置するかつて紀和町は、人口1万人を越えた周囲を山に囲まれた典型的な山村の町である。熊野川、北山川を境に和歌山県・奈良県とも接しており、昔は奥熊野とも呼ばれた地域。熊野という名称は全国的に知られてはいるが、広範囲なため、和歌山南部の印象を持たれる方が多いのではないだろうか。

昨年7月、この地域の霊場とその参詣道である熊野古道が世界遺産に登録され、隣町の御浜町との境に位置する「風伝峠」が世界遺産となった。世界遺産にはならなかったものの、本宮から熊野へ至る伊勢道の本線を吉野方面へ分岐する形で、熊野古道北山道の「通り峠」がある。実はこちらの方が、人気がある。古道ウォーカーが参詣道を通って霊場と呼ばれる熊野三山や高野山を目指すように、紀和町でのルートには「丸山千枚田」を目指す人が多くいるからで、通り峠を越えること約1時間、丸山側にくだりはじめると眼下に、1,340枚を有する棚田が広がる。その規模は全国の棚田の中でも1、2を争うもので、そのほとんどが石を積み上げて作られた一種の文化財的な要素を漂わせる、そんな景色となっている。この「通り峠」の途中、峠より尾根づたいに展望台へ向かえば、まさに真上から見下ろしたかのような千枚田が一望できるが、車で県道40号線を丸山に向かい左手に現れる斜面に広がる千枚田を見た時の景色もいい。

 自然の景色ではない、人間が生きていくために作り上げた造形物であるにもかかわらず、この景色は農耕化の歴史、いや、代々受け継がれてきたであろう人間の業と生きる糧を得るための、血と汗の結晶であることが背景に思いとれる、そんな壮大なスケールが、訪れた人々の現代社会における複雑なストレスを解放し、その心を癒してくれているのだろう、だからこそ、この丸山千枚田を目指すルートが注目されているのではないだろうか。

熊野古道展望台より丸山千枚田を望む写真

熊野古道展望台より丸山千枚田を望む

千枚田の復田へ

さて、この「丸山千枚田」も実は見るも無残な時期があった。人口が1万人を超えていたと冒頭にも触れたが、紀和町はかつて鉱山の町として栄え、日本の産業を支えていた頃があった。その昔は、奈良東大寺の大仏建立に必要な銅が大量に供出され、近代では昭和9年に銅鉱山が開山し、人口も10,320人とピークを迎え、賑わいを見せていた時代もあった。昭和53年に鉱山は閉山、その後、人口は激減し過疎化が進んだ現在では、人口1,800人を下回り、高齢化率まで全国1~3位を争う高さにまで至ってしまった。

一方、農業を見てみると紀和町の総面積113.67平方kmの内、89%が林野で、元々耕作条件の良いところは少ないこともあったが、戦後の日本の経済発展は目ざましく、その影で農家の担い手が都市部へ流出し耕作放棄地等が増加、また住宅などの木材需要に応じて耕作条件の不利な地域の農地では植林されるところが多くなり、紀和町に点在していた棚田はその姿を変えていった。丸山千枚田にも同様にその波は押し寄せ、耕作面積は年々減り続けた結果、かつて慶長6年(1601年)には2,240枚(7.1ha)を数え、明治の頃には最大11.3haあったと言われる棚田も、平成5年には530枚まで減少した。まさに瀕死の状態であったのだ。だが、こういった状態を憂いた人達の呼びかけによって、棚田を守るべく丸山地区の住民(当時33世帯)が立ち上がり、平成5年に「保存会」を結成。過疎高齢化対策に苦慮していた行政もこれを機に既存の温泉資源や文化遺産、そして豊富な自然の新たな活用を目指し、「丸山千枚田」復田への取り組みに支援を開始。復田と維持管理の方策について何度も地区との会合の場が設けられ、平成6年に、《千枚田が美しく豊かな水田景観を形成し、かつ、貴重な稲作文化資産であることにかんがみ、町、町民等が一体となってその景観の保護に努めるとともに、生産の場としての有効な活用を図ることによりふるさとづくりに資する》ことを目的に「丸山千枚田条例」が制定された。そして同年「田植祭り、稲刈りの集い」としてイベントがスタートし、その後、平成8年にはオーナー制度を導入、今年で12年目を迎える。

稲刈りの集いの写真

稲刈りの集い

認知されたオーナー制度と今後の課題

この取り組みは、マスコミ等にも広く紹介されるなど、カメラマンの絶好の被写体となり、今や「日本の原風景」とまで称され、私たちの認知度をはるかに超える存在となった。感じているより有名になった。毎年100組の参加を目標にオーナーを募っているが、昨年は111組と過去最高の参加を得ることが出来、更に今年は125組を目指している。平成11年に作成された町の活性化ビジョンにおいては、将来のオーナー数を150組まで増やすことを目標にしている。

保全経費には約1千万円を費やす。平成16年度のオーナー及び守る会の会費収入は385万円、これに三重県からの補助金374万円を加えると759万円となり、残りを町が町費でまかなっている。苦しい財政事情はどの市町村も県も同じではあるが、この東紀州地域では象徴的な存在となっている「丸山千枚田」の保全は絶対不可欠であると、県も補助に対しては前向きに頑張ってくれている。しかし、県の補助金もいつまでも続くとは限らず、それを考えると、やはりオーナー参加数の増加を図り、自活を目指すことが必要となる。こんな現状を考えると、体験的でもいい、ワーキングホリデーでもいい、新たな取り組みを始める必要はある。年に2回、ボランティアでの草刈作業が行われるが、大半は地区外からの参加者で、今後も地域外からの継続的な協力を得るためには、保存会のメンバーも機会があるごとにボランティアとして地区外の作業に積極的に参加すべきであろう。こういった交流があってこそ地域をあげて活動を行っているといえるし、今後は大変意味のあることになる。

1960年代の千枚田の写真

1960年代の千枚田

条例制定から期待したもの

町では、研修的な参加を含めた新規就農者や、一般的なIターン・Uターンでの定住を促進するため、農業関係、家屋建築の融資を受けた際の支払い利息の一部を補助、補給するなど、結婚・出産・町外への通勤・満一歳未満の乳児のオムツ代毎月5千円・・・など、助成を行う制度を設け、「紀和町若者定住促進に関する条例」として平成12年に制定した。早い話が、住民を増やすために、特に若い人達に紀和に住めばいいことがあるヨ!ということを知ってもらいたい訳で、農業にしても棚田保全の実績から稲作の勉強ができる環境があるのだと知ってほしい。ただ、残念なのが新規就農者や研修目的の参加者を受け入れる体制が整っていない。グリーンツーリズムを行うに必要な施設として平成9年に宿泊施設を有した交流促進センター「丸山千枚田荘」が建設され、平成5年に、①自然を活用した都市との交流事業や体験農業及び営農指導の実施。②農耕文化の伝承及び農林地保全管理並びに農林産物の加工販売。③町民福祉の向上及び地域環境整備事業。④雉の飼育及び放鳥並びに加工販売。を主な目的として、「紀和町ふるさと公社」が財団法人として設立されたが、収益面が重要視されたため、設立当初より積極的に千枚田の保全に関われなかった。というより、独自性を発揮した活動が出来なかったといえる。町と一体になって進めてきた保全活動ではあるが、今後は、紀和町ふるさと公社を中心に丸山千枚田での取り組みを行い、耕作放棄地の有効な活用にむけて支援体制を整え、公益面での活動を本格的に始める事となった。従来オーナー制度の窓口は役場で行っていたが、平成17年より紀和町ふるさと公社が行うこととし、オーナーとの連絡等これにかかる事務は一切が紀和町ふるさと公社が行う事として、既にスタートしている。

紀和町の「丸山千枚田条例」、「紀和町若者定住促進に関する条例」など、これらの条例は一見ユニークな条例と映るかもしれないが、遊休農地・荒廃地の利活用と人口増加、特に若者の定住化に繋げるために掲げた取り組みであり、今年11月に隣接の熊野市と合併し新市が誕生するが、新市においては更に発展させたシステムへと進化してくれるであろうと願う。そして、その意思は受け継がれ、近い将来この東紀州にあって、今以上に象徴的な存在となり、丸山千枚田を拠点とした農業振興の中心地となっていることを信じている。

獣から“獲る”お米

さて、丸山千枚田のことばかり目立ってしまう紀和町ではあるが、紀和町には先に述べた財団法人紀和町ふるさと公社が行っている雉の生産事業がある。雉を孵化させ飼養した後、日本雉は主に県内各地に放鳥され、高麗雉は食用として加工される。食味はというと、大変美味しい。鶏に比べ少々高価ではあるが、猪肉・鹿肉などのように一般的ではないという印象が強いのだろうか? あまり好んで食べようという感じでもないのかも知れない。しかし、イベントなどにおいて雉汁を振る舞い、食してもらった際の反応は良く、美味しいと絶賛していただける。本当に美味しい!また、出汁がうまい!雉の肉も案外柔らかく、焼いて食するにも鶏と比較してもクセがあって何とかということも全くない。入鹿温泉ホテル瀞流荘では、従来の雉料理に加え新たに雉肉を使った“名物料理”を試行錯誤しながら考案中であるが、これが読まれている頃には完成していることと思う。また町内の民宿では既に“きじ重”をメニューとして出しているところもあり、熊野古道~丸山千枚田~入鹿温泉ホテル瀞流荘又は湯ノ口温泉と訪れた観光客に土産話に雉の料理でも食べてもらえば言うことはない。それに、今は、絶対量が少ないため、なかなか使えないが「丸山千枚田で獲れたお米」を使うようになれば、なおいい。

余談になるが、「丸山千枚田で獲れたお米」は正真正銘、丸山千枚田保存会が管理収穫したお米だが、“獲れた”は誤字ではなく、あえて付けた文字で、紀和町での稲刈りは毎年8月の末から9月初旬で終わり丸山のオーナー田ではそれから1週間から2週間遅れて刈り取りが行われるため、ネーミングで、猪や猿に狙われ、荒されることから「獣から米を獲る」という意味で付けられた名前である。昔は今ほどに鳥獣の被害に遭うことは無かったものが最近では森林環境の変化が影響しているのか、各地で被害のニュースをよく聞くようなってしまった。この獣害への対策も担い手対策と同様重要な課題となっている。

新たな体制での展開

紀和町は、丸山千枚田を農林係が、熊野古道や温泉施設等を観光・商工係が担当していたが、平成16年度から、これらが統合された振興係として取り組みを始めた。合併で行政の組織も再編されることは言わずと知れたことではあるが、例えば熊野古道は教育委員会が整備をし、観光担当者は来客数の増加と収益に繋げるためPRする。丸山千枚田では、農業担当者は農業振興への利用を模索するが、観光的な要素が充分あれば、やはり観光担当者はPRしようとする。それならば農林業、産業、観光、商工が一体となり、振興係となって取り組めば、まさに地域の振興を推進する絶好の体制が組めることになる。町にとっては地域資源である豊富な自然と、人間が造り出し守り続けられてきた遺産を、一気に全国区に押し上げる絶好の機会が到来したと言える。そんな、地方の小さな町では行政においてもマンパワーが不足する、その中での新たな展開への打開策を見出すのは容易ではないが、将来、笑って苦労話が出来るよう頑張って取り組みたい。

これまでに取り組んで来たことの実績を踏まえて、新たな展開への基礎固めが出来るか、僅かな時間しか残っていないが、臨むしかない。

※オーナー制度:10人を上限とし、1口3万円でオーナーになれる。田は約100平方mを割り振り、秋に収穫した米15㎏を保証している。また春と秋には地元産の野菜や加工品を送付。他に年に2~3回の機関紙を発行。田植の集い、稲刈りの集いにおいては参加をお願いしている。

※守る会(サポーター制度):1口1万円、秋に収穫された米1.5kgを保証する。田植え稲刈りなどの作業はない。他に年に2~3回の機関紙を発行。

紀和町丸山千枚田保存についての経過の画像