歴史のふるさと「太郎川公園」全景
高知県梼原町
2479号(2004年5月10日) 森林インストラクター 大崎 光雄
高知市から高知自動車道を西に向かう。
約30分、現在の終点須崎東インターを降り、国道56号バイパスをさらに西へ5~6分走ると道の駅「かわうそ」に着く、そこから国道197号に舵を取り新荘川沿いを遡り西に走ること約20km。
山肌を縫うきつい坂道を上り始める。対岸に縞模様を描くように手入れされたお茶畑が見える見晴らしの良い所に道の駅「布施ヶ坂」がある。トイレ休憩を兼ね、新芽が輝く茶畑とその中をつづら折りで走る道路の風景に見入る。
ここが、津野山郷(梼原町と東津野村の藩政時代の呼称)への入り口にあたる。
今は、この標高差300mを一気に登るバイパスが整備されているが、わずか10年ほど前までは、対岸のつづら折りの狭い道路が津野山郷への唯一の道であった。
東津野村と梼原町の境にある野越トンネル、神根越トンネルを抜けると目前の斜面に、石を積み一枚一枚築き上げられた千枚田が広がる。
高知から85㎞、約2時間。雲の上の町梼原にたどり着く。千枚田のふもとを貫く風早トンネルを抜けると道端に一間半四方ほどの小さな草葺き小屋に幾人かの女性たちがいる。
車を降り歩き始めた私に、彼女たちが、明るい笑顔で「お茶を飲んで行きや。」と呼びかけてくれた。
この建物は、「お茶堂」と呼ばれ、昔、地域の人々が輪番で旅人に茶菓をもてなし迎え入れていた建物だという。現在も町内各集落に13棟が残されている。
この女性たちは、こうした良き風習を伝えるとともに、人々との交流を図ろうと結成されたボランティアグループで、ここ太郎川公園に復元されたお茶堂で4月から10月の日曜、祝日にお茶を出しているのだという。手作りのお菓子と番茶をごちそうになる。
心地よい風を受け快い会話の余韻を味わいながら園内を散策。
国道の北側には、大きな草葺き屋根三棟が軒を連ねている。その草葺きの民家に囲まれた池に「石水の池」と刻まれた碑があった。揮毫者は、故司馬遼太郎先生である。千枚田を思い書かれた言葉だと碑文に書いてある。
道路を挟んで南側には、「雲の上のレストラン・ホテル・温泉・プール」の施設群とともに、自然を活かしたアスレチックやバンガローなどが整備されている。
草葺き民家や茶堂、水車小屋などと、斬新な建物であるレストラン・ホテルが時代を超えて美しく同居している。ここの温水プールは、地熱を熱源としているし、街灯は太陽光と風力のハイブリッドの自然エネルギーを電源としている。まさに、古の風景やしくみと未来の風景や仕掛けが融合した懐かしく楽しい風景なのである。
オーナー制度元祖の千枚田
旅人をもてなした茶堂
カルスト台地に回る風車
そう言えば、梼原町は「自然との共生、循環」をテーマとした「循環と共生のまちづくり」をめざしている。太郎川公園からさらに2kmほど西に走ると町の中心部に至る。
役場に立ち寄り、中越武義町長に会い、まちづくりの考え方や取り組みについて、思いを聞かせていただいた。
Q:何故、「循環と共生」をまちづくりのテーマにされておられるのですか?
A:我が町の先人たちは、ここ四万十川の源流に生き、森と水に代表される自然の恵みを受け、自然とともに暮らす中で自然と共生し、千枚田など自然をうまく活かす知恵を育んできました。
また、鎮守の森を設け、その中で「津野山神楽」などの民俗文化を育くみ引き継いできました。
私たちは、こうした先人たちの知恵に学び、さらに、現代的工夫を加えながら自然とともに生きていくことが大切であると考えました。
そこで、全国的にも風況の良い四国カルストに自然に優しい風力発電施設の設置を考えたのです。
Q:その風力発電施設から、どれだけの収入があり、それを何に使われているのですか?
A:平成11年度に、発電能力600kwの風車を2機設置しました。
年間約4,000万円の売上げがあり、その内3,000万円ほどを基金として積み立て、環境事業に利用しています。
基金の理念は、「環境と産業の振興」です。
つまり、自然との共生で生まれたエネルギー=資金=を地域内で循環することにより、地域の経済的活力を高めるとともに、自然と共生するための資源となる自然環境の保全に寄与する使い方をしようということです。
具体的な例として、先人たちが「植樹栄郷」を合い言葉に営々と進めてきた1万3千haに及ぶ人工林の間伐事業があります。
近年、多くの人工林が林業界の厳しい状況や高齢化を反映して、間伐や枝打ちなどの手入れがなされずに荒れてきたため、森林の持つ水源涵養をはじめとする様々な公益的機能が低下しています。
私は、四万十川の源流に生きる者として、この清流を後世に引継ぐことが責務であり、そのためには森林の公益的機能を再生させることが不可欠であると考えたのです。
水を育む正常な森の機能を再生させ、四万十川の清き流れを後世に残すとともに、海の豊かな漁を育む、そしてまた、雲を湧かせ恵みの雨により潤った土地から、安全でおいしい食べ物をいただき、健全な人々を育てる。
そんな、豊かな水の循環系を復活させたいと願うのです。梼原の四万川地区に漁の神「海津見(わだつみ)神社」が祀られています。古の日本人は、山奥に海の神を祀り、漁師がそこに詣でたり、川に上流の町名を付け、常に水のふるさとを想う。私は、これこそが循環の思想の原点であると思います。
そんな先人たちの深い思いの再現をめざして、強度の間伐を進めるために1ha10万円を助成する「水源地域森林整備交付金事業」、所謂「林業版デカップリング」を立ち上げました。
また、住宅用の太陽光発電施設など自然エネルギー活用施設への助成措置も始めました。
この3年間で84戸の方々が導入するという成果も出ています。
個人負担が200万円ほどかかることを考えますと、住民の皆様の環境意識の高さをうかがい知ることができます。
このように、自然の循環を高めることと、経済の地域内循環を進めることが、私の考える「循環と共生のまちづくり」なのです。
Q:すばらしい取り組みですね。もう少し、まちづくりについてのお考えを聞かせてください。
A:そうですね、平成13年3月、住民からの公募による委員の方々が中心となり策定いただいた総合振興計画「森と水の文化構想」は、テーマが「つむぎあうまちづくり」です。
これは、これからのまちづくりには「住民参加」「住民と行政との協働」が欠かせないということを表した言葉です。
一本一本の細い糸を紡ぎ合わせて、一つの美しく強い大きな糸を紡ぐ、まさに、住民一人一人の思いを集大成させ、課題を解決して行くことが求められる「まちづくり」にぴったりの言葉だと感心しています。そのキーワードとして「健康」「教育」「環境」が据えられています。住民の「環境」への認識が、私どもと一致していることを大変うれしく思っています。
また、当然に現代社会を生きるためには、「環境と経済」をいかに結びつけるかが、大きな課題であると認識しています。
間伐された人工林
民家屋根の太陽光発電
Q:環境と経済をどう結びつけようとされているのですか。
A:例えばですね、梼原町森林組合が認証取得しましたFSC(国際的な組織「森林管理協議会」による森林認証制度)もその一つだと捉えています。
持続可能な再生産システムをめざした管理をしている森林から産出された木材を積極的に利用していただくことが環境づくりに役立つということをPRし、利用を高めていただくことで地域林業の振興が図れる。
また、行政も地域産材を積極的に使っていくことに取り組んでいます。
最近は、公営住宅はもちろん、木橋や小学校体育館、あるいは幼稚園舎などの比較的大きな建築物へも積極的に地域産材の活用を図り、地域内における経済の循環、さらには、豊かな森づくりへと繋げています。
さらに、全国の棚田を見直すきっかけとなった「千枚田オーナー制度」や農山村の風景、農作業などを活かした交流活動としてグリーンツーリズムを推進しているのも環境の経済化が環境保全につながり、地域の魅力を高める環境と経済の好循環を産む取り組みだと考えています。
こうした考え方とそれに基づく取り組みをさらに広げようと今、環境省の「環境と経済の好循環のまちモデル事業」の採択に向けた計画づくりを行っています。
梼原町は、全国に先駆けた多くの取り組みをしている。
4,500人の小さな町で、そうした取り組みを可能にするエネルギーは何なのか。そこに、興味が湧き私なりに分析を試みた。
役場前に、この町の歴史と風土を物語る建物がある。歴史民俗資料館とゆすはら座である。歴史民俗資料館の別館は、明治時代に建てられた木造の初代役場庁舎である。
洋風の建物が、当時、こんな田舎町に、しかも、役場庁舎として建てられたことの不思議さを感じずにはおられない。
梼原の住民は、閉鎖的といわれる僻遠の地に生きる単なる山の民ではないのである。
また、資料館から少し離れたところにある「ゆすはら座」は、木造の芝居小屋で昭和23年に建てられ、平成7年に今の位置に移築された小屋である。
戦後の混乱期にあって、こんな遊び心を持っていたのである。粋な人たちがいたのものだ。
なるほど、この梼原は、明治維新の立役者坂本龍馬が脱藩した地であり、天誅組総裁吉村虎太郎をはじめとする多くの志士を輩出しているまちである。
さらに歴史を遡ると、和紙の原料となるこうぞ、みつまたを扱う悪徳問屋から地域の人々を救うため斬首を覚悟で藩主に直訴した中平善之進なる義人も出ている。
この地の人々には、こうした変革を恐れない魂が受け継がれているように思えてならない。
また、茶堂や酒席で杯を差し交わし、飲み合う「献杯」など他地域の人々を気軽に受け入れる風土も、新しき血や知恵を受け入れる地域性につながっているのかもしれない。
よく「風土」とは、風の人と土の人、すなわち旅人をはじめとする地域外の人たちの知恵や思いが、地元の人たちのそれとミックスされ生まれたものだと言われる。私もそのとおりだと思う。
まさに、この梼原はそうした風土の漂う町である。
今、新しき風という面では、国境を越えて韓国やオーストラリアの人々とこの町の中学生や地域住民がつながりつつある。
今後も、ぜひ、進取の感覚を失うことなく挑戦し続ける町であって欲しいと願いながら今回の旅を終えた。
越知面交流センター(左)&小学校太陽光発電施設
志士の群像「維新の門」