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沖縄県与那国町/日本で最後に夕日が沈む島

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年11月2日

西崎と夕日

▲西崎と日本最後の夕日


沖縄県与那国町

3139号(2020年11月5日) 与那国町長 外間 守吉


沖縄本島から南西へ約509km、石垣島から約127km、東京から約2、000kmに位置し、台湾からわずか111km。周囲わずか28kmの小さな島は3つの集落に約1、700人が暮らし、亜熱帯気候で年間を通して暖かく、年平均気温は23℃。独自の生態系が育まれ、多様な生物が生息しています。島の周囲の大半が断崖絶壁で、起伏が激しい独特の地形地質が特徴です。


東京から南南西に約2、000km、台湾の東100km余りの洋上にポツリと浮かぶ島。島で唄い継がれている「与那国小唄」の一番は“波にぽっかり浮く与那国は、島はよい島無尽の宝庫、歌と情けのパラダイス・・・” 黒潮が日本で最初に出会う絶海の孤島というイメージがありますが、東京から飛行機を乗り継げばその日のうちに到着する、案外気軽にいける日本最西端与那国島。年に数十日、晴れた日には島の西方に台湾の島影がくっきりと映ります。この島の夕日は水平線に沈まず台湾に沈んでいきます。


車で島を一周していると、与那国馬がのんびりと草を食みながら道路を闊歩する光景に出会うはずです。実は島の周囲は牧場が多く、その中を一周道路が通っています。牧場の入り口はテキサスゲートと呼ばれる足下が溝状のゲートがありますが、牛や馬など四つ足の動物はそのゲートを通れないため門扉は開放されたままで、車はそのまま通れることから、事情を知らない観光客は道路に馬や牛が放し飼いにされていると驚く声をよく耳にします。

また、島の周りの紺碧の海の中も独特で、海底遺跡ポイントと呼ばれる階段状の巨大な岩の構造物が静かに眠っています。自然のものか、古代の人々が造り出したものかよくわかっていませんが、潜った人たちはスケールの大きさに神々しささえ感じると言います。

 

碑

▲日本最西端の碑

東崎と与那国馬

▲東崎と与那国馬​

観光で町おこし

与那国島の周辺海域には、ハンマーヘッドシャークが群れをなすダイビングスポットや独特の海底景観を形成している海底の自然資源があり、多くのダイバーが私たちの町を訪れています。2、000mの滑走路を有する与那国空港の乗降客数も増加しつつあり、島内の観光業の事業者、従事者数も増えつつあります。

与那国島に来島される入域観光客数は年間で約3万人から4万人に推移してきています。隣の石垣市・竹富町の約130万人に比較するとかなり少なく感じますが、50人乗りの飛行機が一日数便の与那国と、航空路線の乗り入れ数の圧倒的な違いはいかんともしがたく、航空会社へ増便の要請をしているところであります。

与那国への観光客は、これまでダイビングやカジキ釣りなど、はっきりした目的を持って来島する層と、「日本の最西端に行きたい」との漠然とした目的で訪れる層の2つがありました。中でも、ダイビング目的の観光客は年間1万5、000人から2万人程度と想定され、これは観光客の半数程度を占めており、島内の宿の多くは、ダイビング目的の観光客向けの小規模な民宿タイプの宿が大半でありました。

平成18年に、与那国で初となるホテルタイプの宿泊施設である「アイランドリゾート与那国」が開業し、これまで受け入れが難しかった団体客が増加し、観光客数及び観光客層が拡大してきました。当ホテルの宿泊客数は年間1万5、000人以上の水準となっており、団体客の増加に対応して観光バス事業の需要が伸びたほか、みやげ物店での特産物販売など、その波及効果は大きいと言われています。

なお、平成15年から18年の間に複数回放送されたテレビドラマ「Dr.コトー診療所」による効果は、観光客数の増加の面では放送当時から比べるとだいぶ落ち込んでいますが、与那国の知名度向上に広く寄与したものと思われます。

本町の観光は、ダイビングの時期等、季節が限定されていることから、自然体験型観光、伝統文化体験観光やマリンレジャー環境を充実させ観光の通年化、また、歴史的遺跡などの観光交流資源が数多く島内にあることから、これらをネットワーク化し、広域観光・交流を目指しています。


昨年、文化庁の補助を受けて島の地質調査が行われました。島の独特の景観は与那国島の成り立ちを知る上で極めて重要であるだけでなく、それらの観察地として日本を代表するものとなる可能性があることが分かりました。今後は、与那国島が誇る地域資源として、その学術的な価値を教育や観光に利用していくための取組を進めていく予定であります。

​​ハンマーヘッドシャークの群れ

▲ハンマーヘッドシャークの群れ

撮影地

▲テレビドラマ「Dr.コト―診療所」撮影セット

イベントで町おこし

町おこしの一環として、国際カジキ釣り大会や島一周マラソン大会を開催しており、島外からの参加者も多く活性化の一翼を担っています。残念ながら、今年は新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、2つのイベントは中止となりましたが、例年島内外から多くの参加者があり、島は大変な賑わいをみせます。

「日本最西端与那国島国際カジキ釣り大会」は与那国島を海洋レジャーのメッカとして広くアピールし、観光・漁業の振興、地域の活性化を図るため、毎年7月に3日間にわたり開催されます。与那国島は、カジキをはじめとする大型回遊魚の宝庫で、沖縄県内随一のカジキの水揚げを誇ります。今大会は約30チームによりカジキのトローリングをメインとして、島の周囲での磯釣りやサブとして親子釣り大会が繰り広げられます。イベントは、本来のカジキ釣り大会の他に乗馬体験や海底遺跡ツアー、闘牛大会などが楽しめて、夜には島の伝統芸能やライブなど、盛りだくさんのアトラクションがあり会場は熱気に包まれます。最終日には、大会名物カジキの丸焼きが来場者へ振る舞われ、島で1年に1回の打ち上げ花火も上げられるなど、島民、観光客が一体となったお祭りとして約30年前から開催されています。

また、「日本最西端・国境の町を走ろう」をキャッチフレーズに、毎年11月の第2土曜日に「日本最西端与那国島一周マラソン大会」が開催されています。25km島一周コースと、島の一番西の岬から会場までの10kmコースがあり、自然豊かな与那国島の景観を楽しめます。参加人数は地元ランナー含め県内外から約600人余りで、生涯スポーツ活動の喜びを多くのランナーの皆さんと分かちあいます。レース終了後は、民俗芸能や音楽ショー等々趣向を凝らした交流を目的に「ふれあいパーティー」が開かれ、出会いと心の絆、親睦を深めていきます。

カジキと釣り人

▲カジキ釣り大会の様子

マラソン大会

▲マラソン大会のスタートの様子

伝統文化・芸能とその継承

与那国島は日本の最西端に位置し、隔絶された島独特の、特色ある行事、言語がみられ、琉球王朝と南方文化の影響を受けた芸能などがみられます。芸能、文化の多くは冠婚葬祭や、時節に催される行事・祭事で今でも語り継がれ、歌い継がれ、踊り継がれています。

島の祭事は作物の播種から始まり収穫までを1つのサイクルとして、節目ごとに大小30にもおよびます。

各祭事は神々と島民をつなぐ司が祭事の日取りから、神への祈願を取り仕切ります。近年は司にあたる方(女性が継承)が島外へ移住するなどの問題もあり、後継者が途絶える恐れや、社会の移り変わりによって祭事も形態の変化を余儀なくされていますが、地域行事として生活の節目の1つであり、島民の祈りの場であることには今も昔も変わりはありません。

そしてその祈りは、家庭や島の繁栄や平和を願うものであり、家庭円満・子孫繁栄・無病息災・五穀豊穣・航海安全・海上平穏・大漁祈願等があります。


与那国島では神が降りてくる神の月(カンヌティ・旧暦10月以降の庚申の日から始まる)に、25日間と言う長期間にわたってマチリ(カンブナガ)が行われます。カンブナガとは神の節という意味で、このマチリを終えると島は正月を迎える準備を始めます。

マチリは与那国島の存続と繁栄を祈願する大切な祭祀で、クブラマチリ(久部良自治公民館主催)では異国人退散を、ウラマチリ(東自治公民館主催)では牛馬繁殖を、ンディマチリ(比川自治公民館主催)では子孫繁栄を、ンマナガマチリ(島仲自治公民館主催)では五穀豊穣を、ンダンマチリ(西自治公民館主催)では航海安全を、5つのマチリでそれぞれ祈願します。

島の人々は昔からマチリの期間中、四足の動物、特に牛の屠殺及び食肉を禁じていますが、理由についてはさまざまな説が語られています。

その一つとして、昔から人々の農耕作業や交通の助けとなり、暮らしに欠かせなかった牛や動物たちを敬い、感謝してマチリの期間中は屠殺しないというものがあります。

そして、ンダンマチリを終え、全てのマチリが終わるとアンタドゥミと呼ばれる儀式が行われ、司達は神衣を脱いで人間に戻り、それと同時に期間中の禁忌も全て解かれます。


こうした、古くから伝わる年中行事をただ淡々と消化するのではなく、その意味を知ったときに伝統は初めて人の心に価値をもたらし、感謝や厳粛な気持ちを植えつけます。その思いを古来から絶やさず、守り続けてきた島の人々の誠実さ、勤勉さがあり、祭事に基づく伝統文化が生活に息づき、豊かな人間関係を育んできました。祭事の中で育まれるコミュニティの絆によって、子どものいじめの無いまちと言われていました。

しかし、若者が少なくなり、伝統の継承が次第に困難になる中で、祭事の維持が危ぶまれる状況となっています。私たちは、こうした公民館を中心とした地域の活動を守り育てるための施策や、祭事などの文化の発信やPR、地域の仕事づくりなどを進めています。

マチリ

▲24日間にわたり執り行われるマチリの一場面

豊年祭

豊年祭での奉納芸能の場面​

豊年祭2

▲豊年祭での奉納芸能の場面

西の玄関口を目指して

さて、年に数十回、晴れた日には台湾の山並みを肉眼でみることができる日本の最西端国境の島。こうした立地は、当然の如くお隣の台湾とも関係が深く、戦前・戦後そして現在に至るまで台湾は島発展の重要なキーワードであります。

戦前、与那国島は東洋一と言われた鰹節工場があり活力のある島として発展、日本の統治下にあった台湾は、仕事・買い物・修学旅行と日常生活の場であり、戦後は台湾との密貿易の中継基地として人や物資が島に集まり昭和22年には人口は約1万2、000人まで膨れあがりました。日本全体が混乱している時代、台湾を通じて食料や物資が島に入り、ここから沖縄本島や本土の方に運ばれていったのです。この時代を知る島の古老は“景気時代”といって懐かしがります。島にとって台湾は戦前から漁船で行き来できる生活圏でもありました。しかし戦後の動乱期を過ぎ、国境線が確定すると動脈が切れたように人・物・金の流れがストップし文字通り端っこの島となり、その後の島の衰退は言うまでもありません。


与那国島歴史文化交流資料館(通称DiDi交流館)に「親仁善隣」と書かれた額があります。その意味は周囲の国々や人々と仲良くしようということです。与那国町は1982年から台湾・花蓮市と友好姉妹都市提携を結んでおり、その締結記念として寄贈されたもので、2022年には締結40周年となります。与那国から訪問団を結成し直接乗り入れる計画中ですが、両地域の間に定期的な就航路線はなく、与那国島から直接チャーター航空便か船舶を予定しています。ただ、この30数年の経験を通じてそれが一筋縄ではいかない状況も知り得ています。これまでさまざまなアプローチを仕掛けてきましたが、手を伸ばせば届きそうな近さにある台湾も制度的には遠い存在であります。島にCIQ(税関・入管・検疫)の施設、体制が整っていないことも要因の一つであります。

島が困窮している打開策として「国境交流特区」を過去に申請してきましたが、結果は残念ながらほぼ不可として退けられてきました。そこで、チャーター便を飛ばすなど台湾との直接交流の実績を重ねてきました。そして、現在「与那国町国境交流結節点化推進事業」により台湾との間に高速船を就航できないか、国の制度の高い壁を打ち破るべく、実現に向けて模索中です。与那国空港から飛行機に乗るとわずか30分、高速船を使えば約3時間弱で台湾へいくことができる、この近くて遠い国へ与那国島からいつでも自由に往来できるよう、日本の西の端の玄関口を目指しています。

鰹節工場

▲東洋一と言われた戦前の鰹節工場

島の西の岬

▲島の西の岬、西崎から見える台湾の島影