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 古きを守り、いやしの里作り

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年1月10日

古きを守り、いやしの里作り

和歌山県九度山町長 奥野 恒太郎

  
やさしい風が吹く。なつかしい風も吹く。古い歴史は、いまも確かな顔を覗かせ、伝統は生き続けている。

九度山町は和歌山県の北東に位置し、北には紀ノ川が悠然と流れ、南には、霊峰高野山を仰ぐ、人口約6,000人、面積44.19平方kmの小さな町であります。しかし、我が町には数多くの名所旧跡や文化遺産があります。数え上げれば、切りがありませんが、まず一昔前なら、誰でも知っている、真田三代をお祀りする、善明称院(真田庵)があります。

幸村公は父昌幸公と共に関ヶ原の戦いに西軍に味方して参戦し、これに敗れ、高野山に登るも後に九度山にて住むことを許された。

幸村公は父昌幸公、そして我が子大助や、猿飛佐助、霧隠才蔵等で有名な十勇士と共に九度山へ下って来た。この一行を村人達は喜んで迎えたと古書にあります。それから幸村公一行は、九度山にて14年余を暮らした。その間に昌孝公は死去(1611年)され、今の真田庵の地に葬られた。1615年、幸村公は大助や十勇士、そして一族郎党を引き連れ、大阪夏の陣に赴き、5月7日壮烈な討死にを遂げた。敗戦の将なるがゆえに、徳川にはばかりまつる所も無かったが、時の天皇の厚い信頼を得ていた大安上人が善明称院(通称真田庵)を1741年建立され、真田昌幸、幸村、大助を祀られた。

この寺は、八棟造りの重厚な三層城閣風の建物である。屋根の瓦には、棟に至るまで全て菊花の紋章が入っている。我が町では真田三代(昌幸、幸村、大助)や十勇士をしのび、毎年5月5日には、真田祭を行っている。

ちなみに、本町の姉妹町である信州(長野県)真田町(真田家発祥の地)の三代は(幸隆、昌幸、幸村)である。後に与謝蕪村が真田庵を訪ねられ、詩を二句残している。

 かくれ住んで
     花に真田が謡かな

 炬燵して
    語れ真田が冬の陣

また、九度山には、慈尊院があります。この慈尊院は弘法大師(空海)の御母公(玉依御前)をお祀りしているお寺であります。

空海は、弘仁7 年(816年)、朝廷より高野山を賜り、翌年政所として慈尊院を建てられた。

母御は立派になった我が子を承和元年(834年)、はるばると訪ねて参りましたが、高野山は女人禁制の真言密教の聖地であったため山内に入ることが出来ず、空海は下山して、慈尊院にてお住まいをされる様に話されました。母御は、九度山慈尊院にてお暮らしになられましたが、承和2年(835年)2月5日83歳でお亡くなりになられた。この約一年の間に空海は九度、山坂越えて母御に会いに来られたことから九度山となったとのことであります。

母御はわずか一年ではあったが、村人や、訪ね来る人々に慈悲の心を説き、我が子空海の親に対する孝行を説き聞かせたと云われております。

空海は母御を慈尊院の本堂の横に手厚く葬られ、その上に廟を建立され、自ら弥勒菩薩を掘られこれを安置された。その弥勒菩薩が、現在、国宝に指定されております。

空海が母御に会いに通われた道が、後に高野山参りの本街道となり、一町(109m)ごとに石の卒塔婆が180本立てられ、慈尊院より、高野山大門に至る間が町石道と呼ばれるようになり、平成年(2004年)7月1日ユネスコにおいて、世界遺産に登録されました。これに伴い、慈尊院、丹生官省符(にゅうかんしょうぶ)神社も世界遺産になりました。

とかく、今の世は、義も慈も無い、人をおもんばかることも無い、利己的で、自分に対して関係の無いことは見て見ぬふりをする者がほとんどになった。悲しい世の中だ。

真田幸村のように「義」を重んじ、弘法大師(空海)や母御の様に「慈」を尊び、今こそ、日本人本来の心に立ち戻らなければならない時ではないでしょうか。