全国町村会

南信州の山中に桃源郷あり

早稲田大学教授 宮口 侗廸(第3052号・平成30年9月3日)

6月半ば、愛知大学研究員の黍嶋久好さんの案内で、長野県の南端にある売木村を訪ねた。豊橋駅から車で3時間近くかかる。南信州には合併しなかった小さな町村が多数あり、その中でも売木村は7キロ四方ぐらいの小さな村で、郵便番号も全域で一つである。すでに人口は600人を切り、世帯数も300に満たない。標高は村役場のあるあたりで800mあり、夏の夜の涼しさは格別であると思われる。

これだけの高さにありながら、この村が、わが国の水田農村の原風景そのものを持つことにまず驚いた。集落の背後に樹木に覆われた山があり、浅い谷に沿って水田が広がる。谷が広くて日照時間が長いことが、高い標高にもかかわらず米づくりを可能にしてきたのであろう。五つの峠に囲まれた穏やかな地形は、険しい地形の愛知県側の山村から入ると、まさに別世界である。

売木村は併設の小中学校で、昭和58年から山村留学に取り組んできた。巣立った児童生徒は約350名に達するという。寮・食堂・学習室等を完備した山村留学センター売木学園が25年前に建てられており、月謝は必要だが、給食は村の全額補助である。留学生がゼロだった年はなく、今年度は小学生30名のうち7名、中学生17名のうち3名が留学している。月に1週間程度は農家で家族の一員として生活するプログラムが組まれていることも頼もしい。

伺うと売木村への移住者は今や200名に近く、なんと人口の3割を超えるという。何人かの移住者は、山々と水田の織りなす落ち着いた風景に魅せられたと語ってくれたが、このことが、まさに峠を越えたところに出現する桃源郷の引力を物語る。農村の価値を語る筆者の夜の講演にも、移住者がかなり参加してくれた。

黍嶋さんは、かつて売木の隣の愛知県豊根村の職員時代に山村留学に取り組まれ、旧国土庁で始めた地域づくりインターン事業でもお世話をいただいた方である。愛知大学は平成17年に「三遠南信地域連携研究センター」を設立し、黍嶋さんを研究員として招聘したが、翌年から売木村に愛知大学の学生が訪れるようになり、28年11月には研究センターのうるぎ分室が開設された。この春には「うる名人−売木に生きる人たち−」というしゃれた冊子も、学生たちによって刊行されている。三遠南信とは、三河・遠江・南信州の県境の山村地域を意味し、高規格の三遠南信自動車道も一部供用が開始された。都市から遠い県境にますますいい形の連携が育つことを祈ってやまない。

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