2 農山村はどう考えられ、どうなっているか ●

 

  このように農山村の持つ、新しい価値が見出され、役割が見直されるようになってきました。ではこれまで、農山村はどのように見られ、いかに位置づけられてきたのか、農山村の生産活動はいかに難しいのか、そうした面に眼を向けてみましょう。
 
 (1)都市は農山村をどう見てきたか
    都市に住む人々は、農山村に、どのようなイメージを抱いてきたのでしょうか。
  一子相続を基調に強靭な生活のしくみを維持していた日本の農山村も、経済の高度成長のなかで、後継者が都市に流失し、都市から遠い農山村ほど早く過疎化が進行し始めました。しかも耐久消費財をベースにした生活革命に合わせて、より多くの現金収入が求められるようになりました。このとき都市から近い地域では兼業化が進行しましたが、中山間地では建設業や造林事業といった限られた兼業の場しかありませんでした。特に自動車の普及は道路の新設・改修を促進し、こうした建設業に農山村の労働力が集中しました。
  このような流れのなかで、生活基盤における都市との格差意識が生じ、当時の財政状況と国の施策が相俟って、多くの農山村において都市的施設の建設が進められることとなりました。国・地方の補助事業として建設されたこのような都市的施設は、マスコミの報道等もあって、次第に都市の人に知られるようになりました。ただある時期までは、都市の多くの人々が、農山村から流入した人たちであったため、農山村のもつ本来的な困難さに対して共感を抱いていたように思います。
 


  
 
    しかし、都市二世、三世が増え、しかも都市生活に閉塞感が生まれつつある今日、都市の人々の農山村を見る眼には、従来と違った冷淡さを感じさせる変化が生じてきているように思います。
 けれども、20世紀の終わりになって、わが国でも、かけがえのない自然の価値と、自然と共にある暮らしの価値が改めて再認識されるようにもなっています。農山村とそこにある暮らしには、都市では生み出しえない価値があるということに、都市の人たちが気づき始めたことは重要です。自然と共生し、自然を巧みに使って持続的に営まれている農山村の生業やワザに出会うと、そこに大きな魅力を感じるようになりました。またそのように考える都市の人たちは増え続けていると思われます。
  好ましく維持された農山村の風景には、他に代えがたい美しさと落着きがあります。このように受けとめる人たちは、安全で安心できる食材を、目に見える身近な農山村から供給してもらいたいと考えるようになってもいます。
 
 (2)農山村地域の生産活動には、どのような困難さがあるか
 

  都市は人間が造った装置です。それに対して農山村は、自然の舞台の上にあり、自然から生産活動をつくり出す場です。わが国の農村には、1000年以上にわたって営々と水田を耕作してきたところが、数え切れないほどあります。複雑な地形を克服し、米づくりをしてきました。その単位面積あたりの収量は、世界的に見ればきわめて多く、味の点でもほぼ完成の域に達しています。
  しかし、実際の農作業は、複雑な土地条件を踏まえ、気象状況を見ながら、きめ細かに行われなければなりません。農地となっている空間がもつ価値を活かし、そこから経済的な成果を生み出すワザは画一的なものではないのです。野菜にしても畑ごとに味が違います。それは時間をかけて育まれたワザで、どこの農村にも名人と呼ばれる人がいるのです。
  しかも、長い間、米の生産を主体としてきたわが国の農業は、多数の兼業農家が、水田中心の小規模農業を行っているため、規模を拡大した中核的な農家が安定した経営を確立するには、多くの困難があります。確かに今はどこの町村にも、水田の大規模経営、花卉栽培、酪農・畜産等において相当の収入を得ている農家がいくつかはありますが、これらはすぐれた資質・意欲に加えて多くの好条件が重なって成立しているものです。誰がどこで試みてもできるというものではありません。
  もっと大規模化を進め、アメリカのような農業経営をやればよいのにと考える人もいるはずです。しかしそれは、限りなく広い大地に大量の農薬と化学肥料を投入して行われている利益のための農業で、身近な人の健康を守る農業とはいえないのではないでしょうか。
  また、食料を単に輸入に頼ればよいという考えの人々には、飢えている国々の多くの人々に食料が行き届いていないがゆえに、国際食糧市場が今の形で成り立っているのだ、ということを想起してほしいと思います。身近で安心できる食糧が得られることの価値を決して軽んじてはならないのです。
最近、ようやく農山村の多面的機能が理解されるようになってきましたが、このような困難な状況のなかで、かろうじて、それらの機能と美しい農村風景が保たれているというべきです。
  林業は、植林してから50年後にようやく出荷することができるという、超長期的な産業です。そもそも外国からの輸入材が安いのは、誰も手をかけていない天然の木を切って出荷しているだけだからです。世界でわが国のように営々と木を育ててきた国は少ないのです。まさに「木の国・日本」といえます。
  奈良県の吉野林業地の一部に樹齢200〜300年の人工林がありますが、これはもう神々しい存在で、空間を持続的に利用してきたすばらしい例ともいえます。しかしながら現在の林業地域の人工林は、基本的な手入れが出来ず、崩壊の危機に瀕しています。このまま放置すれば、地すべりや水害の多発が懸念されます。酸素の供給やCO2の吸収効果の高い、この林業が関わる空間利用をどのようなシステムのもとで持続できるかは、国民全体の課題ではないでしょうか。

 



 

 
 (3)都市と農山村の交流はいかに重要か
    わが国でも、グリーンツーリズム等によって、農山村を舞台に多くの交流事業が行われています。しかし、交流事業の価値を、単に都会の人々に来てもらって、お金を落としてもらうことだと考えるならば、それは交流の本質を見落としていることになります。交流の本質は相互に行き来し、影響し合うことにあります。
  農山村の人々が、都市からの影響もあって、農山村の価値を自ら主張するようになったことこそ、交流の価値にほかなりません。農山村を訪れる都市の人たちは都市との違いにその価値を見出すはずです。
農山村には自然を扱う多くのワザがあります。自然を巧みに扱って、そこから経済的な恵みを取り出すことは簡単なことではありません。そのワザによって都市にはない美しい空間が保たれているということに感動する都市の人は多くいるはずです。そこから農山村に対する評価がさらに高まることが期待できます。
  都市に育った人のなかからも、交流をきっかけに農山村を支えてくれる人材になることも十分考えられます。小さな山村が都市の小学生を山村留学生として受け入れ、子供たちが地元の人のワザに感動して帰るケースも増えてきました。

 

 

 

●3 農山村は、自立に向けてどのようなチャレンジをしているか

 

    都市と違った成立要件をもつ農山村では、様々な困難を持ちながらも、自立に向けて多くの取り組みがなされています。そうした取り組みの考え方や実践とはいかなるものでしょうか。
 
 (1)多様性が活かされてきたか
    日本の国土は、地形的に極めて複雑であるのみならず、南北に長く、気候的にも多様です。わずかな陸地の幅のなかで豪雪地帯と、からっ風の地域が連なるところなどは、世界的にも珍しいのです。しかし、低地に根付いた稲作が高い土地生産性を実現し、多くの人口を扶養してきたために、水田の拡大が同じように追求され、各地方ごとの違いをあまり生み出さなかったことも否めません。このことは九州から東北までの農村集落をよく似たものにさせ、これが米作を中心とした画一的な農業政策が生まれざるを得ない基本的条件となったと考えられます。
  一方、山林においても、戦中から戦後にかけて大変な量の木炭が生産され、山は丸坊主になりました。そこには一斉に杉が植えられました。ここでも画一的にものごとが進んだことになります。
  20世紀の終わりになって、わが国の総人口がまもなく減少を始めることや、過疎化した農山村の人口が回復することは望みにくいことが現実化するにつれて、地域の特徴を活かした地域づくりの必要性が高まってきました。これに都市の人々の中から、農山村が本来的に持っている価値を評価する動きが重なって、同じように都市化をめざすのではなくて、多様性を活かすことに価値があるという認識が高まってきました。
  他と同じになることに価値を見出す思考の強かったわが国の農山村に、他とは違うことに価値を見出す思考が生まれてきたといえます。これは、「均衡ある国土の発展」から「個性ある地域の発展」へと国土開発の考え方が大きく転換し始めたことと軌を一にしています。
 
 (2)どのような内発的な創造が生まれているか
    高度経済成長期に生活水準が上昇するなかで、過疎化した町村が取り組んだのは、まず工場誘致でした。これは、都市よりも不利な条件のもとで都市的な生産の場をつくろうという動きであり、それによって都市に近い所得を持続的に得ることは困難でした。
  本来、都市から遠い場所で都市に近い所得を得るためには、地域にある資源や人材を活用して、都市とは別の経済のしくみをつくるしかないわけですが、それを実現するには、地域の内部から自分たちで考え実行する、きわめて強い創造力が必要です。この困難な作業がようやく各地で実行されるようになってきました。
  地域の違いを価値に変えた、すばらしい地域産業おこしの例をあげることは、今では容易です。このように地域の価値を活かして自然から経済的成果を生み出す方法には、それぞれの地域が違っているだけに、新しい創造的な発想とチャレンジしかありません。そのような努力が、いくつかの地域で実を結んでいます。
  高度経済成長期に、全国の温泉街が宴会歓楽型に流れていくなかで、自分たちのまちの自然と風景を大切に守りながら、静かな休養型の温泉地づくりを進めてきた例もあります。これも、農山村が都市とは異なる考え方と存立条件に立脚するという認識のもとに、地域づくりを進めた成果と考えられます。そうした地域が交流人口を増やしてもいます。
 
 (3)空間を二重三重に使う
    農山村で自然から経済的な成果を生み出すには、もともと多大な困難を伴います。したがって、たとえば農地という空間を農業だけに使っていては、そこからレベルの高い生産力を取り出すことはできません。
 二毛作や野菜栽培における短期の輪作も、農地を二重に使ってきた例ですが、今の時代、農山村にしっかりした所得がもたらされるためには、産業区分をこえた空間の多重的な使い方を工夫する必要があります。
  しっかりと使われている農地には、本来的な美しさがあります。そして都市とは違う時間の流れの中で展開している人々の暮らしには、ドラマがあります。このような農村空間における人の生きざまを、映画やテレビドラマに仕立てたり、美しい農村風景を素材として写真家が写真集を発行したりすることも、空間の新しい使い方です。そのように巧みな発信が行われると、そこには多くの人が訪れるようになります。そのことが時代にあった宿泊施設の立地につながり、そこで地元の農地から生まれた食材が評価されるようになれば、さらに経済的な活力が派生してきます。
  様々なワザを持つ地元の農家の助けを借りて、常設でグリーンツーリズムの学習の場をつくる試みもすでに行われています。交流から一歩進んで、これが一種の研修ビジネスとして成立することも十分考えられます。いま脚光を浴びている農村地域でも、20年前には、観光資源もない村に多くの人が来訪することを誰も予想できませんでした。
  少ない人数で農山村という空間を巧みに使うことによって、一人ひとりの経済的な成果を多くすることこそ、農山村における生活の原理です。そのためには、農・林・漁・商・工の各産業の担い手が、互いの垣根を低くして協力・連携し合い、地域の持つ潜在的な価値を引き出していく必要があります。このような試みが積み重なって農山村が自立に向かう更なる展望が開かれるといえます。
 
 (4)複合的な取り組みが新しいものを生み出す
    農山村においては、都市部と比べれば圧倒的に少ない人口で広大な空間を管理し、そこから一人当たりの取り分の大きい経済システムを構築していかなければなりません。
  過去にあったような、小規模な農家がみんなで同じような農業をやっていては、現代生活を支える生産力が生まれません。ですから、兼業化がここまで進んだともいえます。近年では、農業の後継者難もあって、集落営農などが工夫されています。全国的には農地を売ろうとしない農家がまだまだ多いため、平野部では受委託耕作によって経営規模を拡大した農家や企業的な農業経営もかなり見られるようになりました。しかし、規模拡大だけでは、ほんの一握りの農家が生きていけるだけです。中山間地では、地形が複雑で、規模拡大すらも難しくなります。このような中で一人当たりの所得や生産の多い経済システムをつくるには、複合的に取り組むしかありません。
  そのためには、核になる産業のまわりに、多くの要素を取り込んで仕事の量を増やし、関係する人の取り分を増やすことが、農山村の産業の基本的な方向ではないでしょうか。ここから6次産業という言葉が生まれ、そこでは1次産業の枠内にとどまらず、産物を加工して付加価値をつけ、流通・販売までをも取り込もうとしています。
  都市からかなり遠隔の地で、新しい複合的な生産組織がいくつも育ちつつありますが、ここには、町村行政が大きくかかわっているケースが多いのです。町村では、身近にある資源や人材が、日ごろから情報として行き渡っています。役場職員と農協職員、さらには森林組合や民間企業の職員や従業員の間に付き合いがあります。ある産業活動に新たな付加価値を生み出し、複合的に生産力を拡大しようとするとき、これらの組織が直接かかわりあって新しい協働のしくみを立ち上げることができれば、そこに大きな発展の可能性がでてきます。

戻る     2/4     進む