はじめに

  わが国は、この世紀転換期において、深刻な経済的、政治的、社会的な諸課題に直面しています。その解決の方向と成否は、国のみならず、地方の将来にも大きな影響を及ぼすものと考えられます。
  解決を迫られているのは、バブル崩壊の後始末といった当面の、しかし相当重大な問題だけではありません。右肩上がり経済の終わり、飛躍的な情報技術の革新にともなう産業社会の変転、人類史が体験したことのないような少子高齢社会の到来、環境問題の地球規模への広がり、新たな有害物質への対処、男女平等の進展、国際化の深まりなど、波動の大きな歴史的な転回から生まれている諸問題が、高度経済成長時代以来の考え方や制度の抜本的な見直しと再編を求めているといってよいと思います。それには困難と痛みを伴いますが、思いきった改革を実現することなしには日本の再生はないというべきです。
  ここ数年来、各方面で論議されている様々な「改革」案は、いずれも、こうした大転換のために避けて通れない処方箋として提示されているといえます。しかし、大転換のときには、利害の対立をことさら強調するような動きもでてきます。
  農山村地域の人々が、今、改革に伴う動きの中に大きな困惑を感じ、そのゆくえに危機感を強めているものがあります。たとえば、「都市住民の犠牲の下で農山村を優遇し、その結果、町村は無駄な支出を行っている」とか「どんなに小規模で財政効率が悪くとも地方交付税で財源保障がなされている限り、町村が自主的に合併を進めるはずがない」といった議論です。それが、地方交付税を大幅に縮小すべきだ、地方交付税の段階補正をやめるべきだというような「改革」論と結びつけられると、農山村地域の人々は、「これからどうなるのか」という不安や「結局、農山村は切り捨てられていくのではないか」という疑念がわいてきます。
  農山村と町村の実態に関する基本認識を欠いたまま、都市と農山村の対立をあおり、複雑な事柄を単純な二分法で割り切ることによって、真の問題から、人々の眼をそらそうとする議論のしかたは、「構造改革」を進める上で実りある合意形成には、けっして役立たないというべきではないでしょうか。
  産業の新旧交替によって職を追われ、あるいは過酷な企業競争の中で辛苦を余儀なくされている都市住民の苛立ちや不満を、農山村と町村にむけさせて、それで都市住民の支持を得られるものでしょうか。もし得られたとして、それが本当に日本の再生につながるのでしょうか。
  都市住民が求めていることは、農山村との対立を鮮明にして、かろうじて農山村と町村を成り立たせてきた財源を都市に取り戻すことなのでしょうか。そのようにして、農山村をさらに疲弊させて、どのような利得が都市住民にあるというのでしょうか。都市も農山村も、今までのあり方を真剣に反省し、互いに学びあい、日本再生にむけて新たな国民的合意を創り出すことこそが時代の要請であるはずだと思います。
  わが国の農山村といわれる地域には、現在、2,554の町村が、山間部や離島から大都市の隣接部まで、極めて多岐にわたって存在しています。町村は、国土の大半を占める農山村地域を抱え、これら町村の活動によって、空気、緑、水、土壌など生命の営みに不可欠な自然環境の維持が可能になっています。
  町村行政自体に改善・改革が求められていることは否定しません。しかし、そのことと、農山村や町村を非難することとは違うのではないでしょうか。都市側には、農山村の実態と悪戦苦闘しながらも自立しようとする町村の実態を理解することが、農山村の側には、かけがえのない農山村の維持と発展に町村がいかに貢献しうるかを説得的に訴えていくことが、そして両者間に対等・協力の新たな関係を形成していくことが強く望まれていると考えます。
  本冊子は、そのために編まれた、全国町村会としての緊急のアピールです。本冊子での見解と主張は、農山村と町村の立場に立ってはいますが、けっして、これまでの考え方を墨守し、既得権益を守ろうとするものではありません。都市と農山村の共存に向けて揺るぎない国民的合意をつくりだすため、町村としての決意を伝え、広く各界各層の方々の理解を求めるものです。

 




 

●1 農山村の価値はどこにあるか ●

 

  澄んだ大気のもと、田園や森林が大きく広がり、たおやかに川が流れています。山際には、この空間を形づくってきた民家が、寄り添うようにたたずんでいます。こうした農山村の風景は、その存在だけで、我々の心を和ませてくれるのではないでしょうか。
  しかし農山村には、単にその景観だけでなく、我々国民にとって様々な価値が存在しています。それは、都市に住んでいるか、農山村に住んでいるかを問わず、全国民が日本の国土のうえで安心して生活していくことを支える、基本的な価値といってよいでしょう。それらは次の5点にまとめることができます。
 
 (1)生存を支える
    農山村においては、農林漁業にかかわる生産活動が行われることによって、そこから食料その他の多様な農産物や海産物を生み出しています。また地域の暮らしから育まれたワザを駆使して、それらを様々に加工した品々も全国に供給されています。そうした生産物は、全国民が生存していくための基礎的な拠りどころになるはずのものです。
  しかし、現在の日本における食料供給の状況をみますと、穀物自給率はすでに30%を切っています。先進国では考えられない低さです。また農産物が隣国などから輸入される量も種類も急増しています。今日の日本人の日常生活は、そうした国外からの輸入農産物の上に成り立っています。都市と農山村を問わず、大量の輸入農産物が日常生活を支え、表面的にはとくには困らないという状態になっています。
  しかし、現実には、世界的規模で食糧不足が生じているといわれています。こうした情勢を正面から見据えるならば、様々な困難に耐えながら維持されている、国内の農林漁業の生産機能が、より一層その重要性を増してくるのではないでしょうか。
 



 

    安全な食料を国内できちんと確保することは、食生活だけにとどまらず、私たちが安心して、様々な活動を行なっていくことができる上で不可欠なのです。できる限り都市と農山村が互いに交流を活発にし、顔の見え、気心が通じ合える関係のなかで、安全な食料が供給され、またそれを消費できるような仕組みづくりを拡充していく必要があります。
食料だけではありません。集落を形成し、居住環境をつくるための資材を生産し、それらを加工する上でも、農山村は大きな役割を果たしています。最近では、従来の工業製品や海外からの輸入木材だけに頼るのではなく、農山村で生産された木材等を使って、公共施設や住宅を建設しようという動きも活発になってきました。CO2の吸収はもちろん、林業の役割も新しく見直されています。
  また全国一律の工法ではなく、従来からその地域に根付いていた技術や工法を発掘し、地元の植生を活かした治山治水を進めようという動きも、現実の取り組みとして注目を集めています。こうした動きは、全国規模で画一化してしまった現在の公共事業の見直しにも通じる動きであるといえます。
 
 (2)国土を支える
    多くの農山村は、我々の生存を支える生産機能だけでなく、その他にも多様で多面的な機能を果たしています。それらは、主に「国土の保全」「水源のかん養」「自然環境の保全」といった機能に大別できます。
 


 
    「国土の保全機能」とは、ひとつには農山村に多く存在する水田や畑、森林が、洪水の被害を防止し、軽減する機能をもっていることだといえます。水田や畑、森林が、雨水を一時的に蓄え、そこに留めることによって、河川の急激な増水を緩和したり、遅らせたりするのです。それにより下流域の都市部における水害を防止する役割を果たしています。
  また水田等の適切な管理や、農地の平坦化、森林の下層植生などにより、土壌浸食を抑制する機能も果たしています。それに加えて、傾斜地等においては、森林、農地や用水路を適切に維持することにより、土砂の崩壊を防止するといった国土保全の機能も大きいといえます。
  「水源かん養機能」とは、水田や畑、森林は、雨水や灌漑水を蓄え、ゆっくりと地下へ浸透させ、地下水をかん養していることです。そこで蓄えられた水は、長い時間をかけて河川に流れ込むことにより、河川の流量を安定させ、渇水を緩和させる機能を果たしています。こうした地下浸透の過程で、不純物等をろ過し、水質を浄化する作用も果たしています。この水が、地下水脈をつたわって、都市部で湧出し、市街地で井戸水として汲み上げられ、貴重な飲料水となっている地域も少なくありません。
  「自然環境の保全」については幅広い機能が考えられます。まずは森林による二酸化炭素の吸収や酸素の供給といった、人間生存に関わる基本的な機能があります。また農業生産活動を通じて、微生物による水や土壌の汚染物質の分解や除去、さらに有機性廃棄物の分解機能なども大きな役割です。
  とくに農山村における森林、里山、水田、畑、ため池、水路等は、野生生物の育成・生息環境を保全する機能をもっています。また水田や畑、森林が蒸発散することにより、高温時には広範な地域で気温を低下させ、一方、低温時には温度低下を緩和させる機能等もあります。
  このように、河川を通じての都市と農山村の関わりは、多様で深いつながりを保ってきました。歴史的には、水の利活用をめぐって、一部の都市と農山村の間で争いがありましたが、国内に3万本近くあるといわれる河川を通じて、上流地域と下流地域との交流の形として、農山村と都市が連携して、固有の流域圏文化を育んできた地域も数多くあります。
  こうしてみてくると、これらの機能は、単に物理的な機能という意味をこえて、都市・農山村を包含し、互いを融合してきた日本の文化そのものだともいえないでしょうか。
 
 (3)文化の基層を支える
    農山村の存在価値は、これまで述べてきたような、いわば可視的、物理的な機能だけにとどまりません。もう一つの重要な機能があります。それは、農山村が、その固有の生活、生産の現場としての営みを通じて、日本文化のいわば基層を形成してきたことです。
  日本文化は、多様であり、しかも地域ごとに変化に富んでいます。しかし、その源は、農業や林業や漁業における生産活動を通して形成されたものが多いのです。自然の豊かな恵みに感謝し、災害や不幸の回避を祈願するなかから、地域ごとの伝統的行事や祭り、しきたりを生み出してきました。そうした行事、祭り、しきたりの蓄積が、それぞれの地域における固有の生活文化を形作ってきたといえます。
 


 
    また、それらの蓄積の上に、農産物の生産や加工のワザが生まれてきました。地域固有の資源を、地域のワザで加工し、それを消費することにより、一層、地域ごとに特色のある生活の仕組みや暮らしぶりが形成されてきました。農山村は、このような個性ある地域文化形成の原点だといえます。
  21世紀を迎えて、レクリエーションやスポーツそして芸術などの分野における活動は、我々にとってますます重要なものとなってきます。多様な文化や豊かな自然をもつ農山村こそ、こうした活動を受け入れる余地をもった絶好な地域であるといえます。様々な芸術活動も、豊かな農山村地域の空間のなかで展開することによって、厚みのある幅広いものになっていくのではないでしょうか。こうした、農山村という地域を舞台にして、より充実した自己実現の可能性が開かれていくのです。そして、このような活動の蓄積が、さらに新しい文化創造を促していくといってよいと思います。
 
 (4)自然を活かす
    21世紀を拓き、これからの日本再生に不可欠な視点は、自然や環境をいかに守り、再生し、新しい生活のなかにどう活かすか、ということではないでしょうか。都市に居住する人々にとっても、自然志向のライフスタイルや環境重視の考え方や行動は、もはや欠かせないものとなっています。
  日常生活においても、豊かな自然を求め、安心できる環境を創ろうとする願いは大変強いものがあります。とくに、今後拡大する余暇時間に対応して、日本人がどのような暮らしを創り出していくかを考えるとき、農山村が保持する自然は、何ものにも代え難い貴重な存在になります。
 


  
    日本を代表する景観や景勝地といえる国立公園や国定公園の多くも、農山村にその大部分が含まれています。こうした豊かな自然に富んだ農山村や、生活の中に活かされ、美しく手入れされた農地周辺の里山は、国民全体の生活に潤いを与え、余暇時間を過ごし、旅で訪れる格好の対象地となるのです。農山村の住民にとっても、都市住民にとっても、新しいライフスタイルを実現し、創造的な自由時間を過ごす不可欠な場になるともいえます。
  また農山村における農林漁業の現場は、生産の場であるとともに、生活と生産を結ぶ営みの場として重要です。自然の仕組みや営み、そして農林漁業の現状を学ぶ、環境教育や総合学習の場として、その現場を活かすことも今後ますます重要となっていくものと思われます。農山村の地域の現場は、このように都市生活者にとっても貴重な存在なのです。
 
 (5)新しい産業を創る
    農山村という地域は、これからの日本の新しい産業を展開する場としても位置づけることができます。
  たとえば観光やツーリズムの分野があります。日本人の観光行動は大きく変化してきています。団体で名所旧跡を訪ね、温泉地で宴会を開くといった、物見遊山型、あるいは一時(いっとき)豪華主義型の旅行は急速に減少してきました。
 


 
    それに変わって、農山村で自然にふれ、農業も体験して、ゆったりと余暇を過ごすグリーンツーリズムが、すでに多くの地域で取り組まれています。また離島や過疎地域に出かけ、自然や環境の学習をし、野外活動の体験をするといったエコツーリズム、島や漁村に滞在し、海辺での生活を体験するブルーツーリズムも注目を集めつつあります。こうした新しい形態のツーリズムが拡大しています。
  農山村においても、これら新しいツーリズムの動きに対応する取り組みが、実際に数多く生まれています。ツーリズムや環境教育の視点から農林漁業を見直し、それらに産業としての新しい付加価値をつけることも考えられ始めています。また同時に、農山村での自然環境の維持が、こうしたツーリズムなどに関連した、これまでにない産業の展開を可能にすることも十分考えられます。
  超高齢社会の到来を視野に入れれば、自然の営みに富んだ農山村は、これからの保健・医療・福祉といったヒューマン・サービス産業の主要な舞台となる期待も高いのです。高齢者が都市中心部へ回帰する動きがある一方、豊かな自然のなかで定年後の生活をゆったりと送りたいという高齢者の気持ちは依然として根強いものがあります。
  このような高齢者を受け入れ、またこれら高齢者の保健・医療・福祉に関わる施設を運営する場所としても、農山村が持つ良好な環境を活かせることはいうまでもありません。
  ハイテク関連産業や情報関連産業も無関係ではありません。農山村地域の豊かな自然環境のなかで、新しい技術開発やソフト開発に取り組んでいる企業も多くあります。試験研究開発機能を重視する新産業を、農山村を舞台に展開する事例や具体的な企業も現れています。バイオ関連産業などは、まさに農山村と密接不可分の新分野です。
  豊かな自然のなかで存分に自由時間を楽しみ、また研究開発にも取り組める環境が、農山村では用意できるのです。才能に富んだ人材を、こうした農山村の自然環境をアピールして呼び寄せることも可能になってきました。
  このように見れば、農山村こそ、これからの社会を活性化していく、新しい産業が展開される有望な場であるといえます。

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